風邪でもないのにやたらと、鼻水が出る日がある。
花粉の季節でもないのにやたらと、くしゃみが出る日がある。
これが漫画ならちょうどそのとき、どこかの誰かが井戸端会議を開催して、わたしの恥ずべき過去について、喧々諤々の議論を戦わせている。現在進行形で恥ずべき鈍感さを持つわたしにはエスパー能力が絶望的に欠如していて、結果、秘密裏に行われているその手の諜報活動を一切検知することができない。だがそれでも、わたしの鼻の粘膜は必然的にそれを関知していて……そしてその事実は巨大な咆哮の形をとって、半径百メートルの耳という耳に例外なく響き渡るはずだ。
はずではあるのだが、残念ながらこの世は漫画ではない。漫画と共通している現実は、恥ずべき存在であるわたしに一切のエスパー能力が欠如しているという点と、そしてそれとはまったく関係なく、わたしを発生源として半径百メートルに轟音が響き渡るという、そのただ二点に過ぎないのだ。
その代わり。現実とはもっと論理的にできており、すべてのことにはしかるべき因果が存在する。わたしの鼻水なりくしゃみなりといった問題も例外ではなく、そこにはきわめて明確で、そしてそれゆえに漫画のコマとしては一切の価値のない、お下劣極まりない原因が存在するのである。
そう。皆、知っての通り。世の中がいつもそうあるように。
わたしは。
前日に、鼻毛を抜きすぎたのである。
考えれば、鼻毛とはなかなかに神秘的な器官である。
人類は猿から進化する過程で、身にまとっていたほとんどの体毛を脱ぎ捨てた。外気に合わせた体温調節という明確な課題を前に、せっかくの優れた回答をあえて拒否するという蛮行。そんな奇行中の奇行に走った恒温動物など、地球上を探してもなかなか……いや、探せばいることにいるのだろうが、少なくとも……きっと、動物園上を探しても見つからないはずだ。
とにかく人類は、そこまでして体毛と訣別したかった。そして実際にそれを成し遂げた。近年になると、わずかに残ったはずの髪の毛まで、自ら捨ててしまう個体も現れた。人類はその動物性を象徴する毛状の器官に、みずからのどうしようもない生物性そのものに、ついに別れを告げることに成功した。
だが鼻毛は、どうしてか、捨て去ることができなかった。
鼻毛とは、他のなににもまして、どうしようもなく必要な器官だったからである。
こう考えてみれば、わたしの行動はとてつもなく冒涜的だ。人類の遺伝子の莫大な歴史の中には、間違いなくきっと、鼻毛という余剰を捨て去る突然変異もありえたはずだ。もしその先祖――正確に言えば、わたしたちの先祖にはついになることの叶わなかった個体――がもっとうまくやっていれば、わたしたちはまた一段と、高尚な存在になりえたはずだ。
しかし。現実ははんたいに、彼らのむなしい犠牲の上に成り立っている。それなのに不敬極まりないこのわたしという存在は、先祖たりえなかった人類の屍の上に立ちながら、彼らが生前に嫌というほど味わったであろう不愉快な生理現象を、自らの行動の帰結として追体験しているのだ。
これはまちがいなく、人類史への侮辱以外のなにものでもない。