公然の秘密

公然の秘密と呼ばれるものが世の中にはいくつかある。誰もが真実だと知っているが、公式文書や報道によっては語られないことのことだ。語られない理由は大方、だれか影響力のあるひとや団体の都合がその内情に絡んでいるからで、彼らはそれをなるべく世間に知らしめたくはないと思っている。だが人の口に戸は立てられず、それらは草の根的な口承を通じて、世の中の誰もが知るところとなる。

 

とはいえ、口承には限界がある。わたしたちが秘密を知るには、わたしたち個人の周りに、そういう話を好きこのんでするひとが必要だ。全員がそういうひとと交流があるわけではないし、たとえあったところで、用心深いひとはひとりから聞いたくらいで信じはしない。用心深くはないひとだって、情報を伝えてきたのがそのひとにとって信頼のおける相手でなければ、やっぱり簡単には信じ込まない。公然の秘密が公然であるとひとが知るのには、単に公然と公表されていることを知るのに比べて、それなりの人間関係的なハードルがあるのだ。

 

それこそが公然の秘密をわざわざ秘密のままにしておく理由なわけだが、今日はその話には立ち入らないことにしよう。今日書きたいのは、公然の秘密を知らされたとき、それを信じればいいのかどうか、どうやって判断すればいいのかについてだ。

 

すべてを信じる、というわけにはもちろんいかない。「それは誰でも知っている」と誰かが言ったとして、それはそのひとの周りの人間が全員知っている、という意味だ。分断と孤立化のすすむこの社会で、怪しげな誰かの周りが全員認めていることは、けっして真実の証拠にはならない。かれらの属するエコーチェンバーで増幅され、彼ら自身の耳に届いている、そういう状況はいくらでもあるわけだ。

 

かといって、まったく信じないというのもまたよくない。公然の秘密とは世の中に現に存在するものだから、すべてを否定していては現実を正しく見ていることにならない。なにかを信じるかどうかを決めるときにわたしたちはよく公式の発表に頼るが、こと公然の秘密については、その「正しい」態度はあてにならない。なにせそれが公然の秘密なのは、公式に発表されないからなのだから。

 

だからわたしたちは、それが正しいのかどうかをその都度きちんと判断する必要がある。誰から聞いたのか、内容に一貫性があるか、科学的に矛盾しないか、その他あらゆる知恵を総動員して、それを信じるかどうかを決める必要がある。メディアが報じていないから嘘だというのは間違いだし、それと同時に、メディアはなにも報じないと決め込むのもまた間違いだ。

 

では、それはどう判断すればいいのか。インターネットでの経験から、インターネット上での噂の正誤に関して、わたしはある程度の指針を獲得できたようには思える。だがそれはまだあまりことばにできないから、ここでは秘密のままにとどめておくことにしよう。

 

そう。自分の判断基準だって、ときには秘密にしておいた方がいいのだ。