不連続性の減退

疲れと絶望とが降り積もって、わたしたちの鼻や喉は、ゆっくりと吸うべき空気を失ってゆく。毛穴までもが呼吸の術を失い、それでも意識を失うことはあたわず、着実に積み増されてゆく頭上の重みをわたしたちははっきりと感じ続ける。そうした時間が何か月、何年と続き、ようやく意識を手放すことのできそうなとき、突如としてわたしたちは、身に宿る莫大な力の存在に気づく。

 

その瞬間、わたしたちは爆発する。未来の数年にわたって吸っているはずだったごくわずかな空気、そのすべてを助燃剤にして、頭上足元問わず、ありとあらゆる存在を吹き飛ばす。吹き飛ばしながら、意識はこれまでにないほど明晰になっている。わたしたちは死に、そして、あたらしい時代が始まる。

 

なにかをやめるということがこのように美しいものであったのならば、きっと幾分か、この世は楽しかったことだろう。実際のわたしたちには、息苦しくなる前に逃げ出すだけの理性がある。もうすこし粘ることのできたなら、爆発の威力を高めることも可能だったのではないかという後悔を、無意味な後悔として脇によけておくことができる。あるいは爆発など幻想で、保ち続ける意識もまた幻想で、わたしたちは絶望を一身に浴びながら、ゆるやかで完全な、連続的な死を迎える。

 

純粋な憧れという光の粒を自分という器にそそいでゆき、長年の想いがついにあふれだしたときはじめて、ひとはなにかをはじめようと決断する。やめることへの憧れが、結局けっしてその通りにはならなかったのとは対照的に、はじめるとは実際に溜め込んだ力の爆発である。しかしながらその手の正の爆発に、わたしたちは決して憧れない――それが実際にまったく不連続で、それゆえにきわめて興味深い過程であるのにもかかわらず、だ。

 

おそらくそこには、時間の流れの一方向性が関係している。やめるという決断のあとには完全なる無が控えているのと対照的に、はじめるという決断のあとには、遂行するという仕事が控えているのだ。無、それは魅力という概念の究極形。遂行という地に足の着いた現実は、虚無への帰還という最高の誘惑と比べて、あまりに矮小だ。

 

しこうして、はじめたときの憧れはそう長続きしない。ほとんど破裂と呼んですらいい現実の爆発は、理想の中の巨大爆発とくらべて、はるかに小さな影響しか及ぼさないのだ。

 

憧れの推進力をおおかた使い果たしたとき、あとには現実の遂行だけが残る。現実に横たわる力はごくわずかで、その中には憧れほどの喜びすらも、見出すことは難しい。わたしたちを進ませる力は二本の足だけ、そしてどこまで行っても、新たな憧れの湧き出さぬことをわたしたちは知っている。そうした状況を知っているからこそ、逆説的にわたしたちは、はじめるという行為への憧れすら失ってゆく。

 

現実の死を迎えるまでに、わたしたちはいくつのことをできるのだろう。いくつのことに憧れ、いくつのことを完遂するだろう。わたしの人生は、終わってくれるだろうか。はじめるということじたいを、わたしがやめてしまうよりも先に。

 

答え合わせは、そのときになされるであろう。