陰謀論について ①

たとえば明日、首都・東京の直下を襲う地震があって、わたしたちの住んでいた町がまるごと瓦礫と化したとする。あるいは、とある銀行のシステムが異常を起こして、いくつかの企業のかかわる経済の流れが完全にシャットアウトされたとする。それに起因する数々の悲劇に関しては立ち入らないことにして……まあとにかく、ないとは言えない非常事態に、わたしたちは困り果てるわけである。

 

困った人のやることと言えば決まっていて、自分を困らせた責任のある誰かを探し出すことだ。地震の例なら、たとえそれがいかに大きく対処不能な災害であっても、しかるべき(すなわち、青天井の)耐震構造のない街をつくった誰かに責任を押し付ける。銀行システムの例であれば、経済流通のコアとなるはずのシステムを壊れやすく作った誰かの、やはり無能を責めるわけである。

 

だがまあ、これらの糾弾はなかなかに分かりにくい。なにせ、責める相手は具体的な誰かではないのだ。それでも責めようとしたところで、やはり核心的な批判は難しい。相手に悪意があるのならば批判もやりやすいというものだが、この場合は単に、トラブルを防ぐための能力かやる気が、足りていなかった(ように見える)だけだからだ。

 

さて。しかしながらその手のもどかしさには、綺麗に解決してみせるすべが存在する。そう。悪意の誰かがいないのならば、作り出してしまえばいいのだ。

 

思うに陰謀論はこうして生まれる。どこかの誰かが誤ってバグを混入させた、というシナリオがはるかに現実的だとしても、どこかの誰かが意図的に経済流通を壊した、というほうが、物語としてはよくできている。そして、物語としての出来というのは、だれかを納得させるための非常に重要なファクターだ。「現実らしさ」と「物語性」。陰謀論者を自認しないひとにとってすらも(もっとも、陰謀論者は陰謀論者を自認しないのだが)、物語には現実に勝る説得力がある。このことはまあ、たとえば歴史もののドラマを見るときのみずからを顧みてもらえば、わかるはずだ。

 

さて。

 

冒頭の仮定に戻ろう。仮に明日地震が起きたり、銀行のシステムが止まったとして。わたしがたとえば、これはバイデンが起こした人工地震だとか、FSBサイバー攻撃だとか言い出したら、あなたはどう思うだろうか。そして日本の耐震工事や、システムのセキュリティ機構が働かなかったのは、それをあらかじめ無効化するウイルスか何かがばらまかれていたせいだ、と主張したら。

 

物語というものの説得力とは裏腹に、きっとあなたはわたしを、馬鹿だと思うはずだ。

 

これはどういう現象だろうか。わたしの話が荒唐無稽すぎる――というのはもちろんあるだろうが、おそらくそれだけではない。人工地震よりも耐震性の不足のほうがはるかに現実的だが、だからといって耐震性の不足には、すべての溜飲を下げさせるほどの説得力はない。

 

原因はおそらく、あなたの知識にある。すなわち、人工地震を起こす技術など存在しないという知識。あるいは、インターネットなどを通じてあなたが獲得した、人工地震というのが典型的な陰謀論であるという知識だ。