尊い子供と天邪鬼

住宅街のまんなかの、午後の公園を想像してほしい。

 

公園はさして広くはない。遊具にも大したものはなく、せいぜい古典的なすべり台とぶらんこが、貧相なアスレチックもどきでつながっているくらいだ。人工物以外にも取り立てて見どころはなく、どこにでもあるどんぐりの木のふもとでは、誰かの食べかすを求めて鳩がたむろしている。風は三階建てのアパートの隙間を抜け、空間全体を目的もなく漂っている。

 

幼稚園の帰りの親子連れが三組、かりそめの陽気を身にまとっている。子供は遊具の下を潜り抜け、鳩を追いかけて遊んでいる。親のほうはベンチに座って、子供を見張りながら世間話に夢中だ。その足元でも、おなじく鳩が首を振っている。

 

子供の顔には、そうあるべき笑顔が浮かんでいる。無心の笑顔、とでも言うべきだろうか、幼稚園児から自我は消え、順繰りに鳩を追いかける即席の遊びと同化している。遊びのルールと同じように、彼らの喜びは理解不能だ。鳩を追うことの、いったいなにがそんなに楽しいのか。

 

さて。わたしの描写が適切だったなら、きっとあなたはこう思ってくれたことだろう。意味が分からなくても、とにかく尊い情景だと。かけがえのない空間が広がっていると。そして。

 

なぜ尊いのか、という問いには、誰も答えられない。

 

一部の天邪鬼は、まったく違う意見を持つかもしれない。すなわち、本来は子供など尊くもなんともなく、わたしたちの後天的な社会認識がそう思わせているだけなのだ、ということだ。なぜ尊いのか、と聞かれても困る。そもそも尊くなどないのだから。

 

わたしも子供は好きではないから、その考えに同意する部分はある。だからわざわざ、反社会的な考えに言及しているのだ。そういうひとには、こう読み替えていただきたい。どういう理由で、子供の笑顔は尊いとされているのか。

 

適当な答えをでっちあげることは、もちろんできる。曰く、純粋な喜びの形である。曰く、無限の可能性が詰まっている。曰く、社会という汚泥に浸かっていない。曰く、みずからの幼少期を思い出す。

 

けれど、みんな薄々感づいているはずだ。そういう理由はどれも、まともな説明になってはいないことに。純粋さとはなんなのか、可能性とはなんなのか、汚れとはなんなのか。そんな難しい問題に対処しなければ目の前の尊ささえ扱えない論理に、適切な理解があるわけがあるだろうか?

 

世の中の現象に、すべて理屈をつけようとするプロセス。間違いがあるとすれば、その部分だろう。

 

無条件に尊いものというのはある。すくなくとも、そういう合意が取れているものは。

 

決まっていることをわざわざ疑うのは、野暮というものだ。なんにでも疑いを向けることじたいに、疑いを向けること。それが正当な態度であるということは、いくらでもありうる。

 

わたしのなかの天邪鬼は、それでいいのかと言っている。天邪鬼の中でも、もっとも原初の部分が。疑うことを疑うとは、すなわち従順であるということではないのか。子供を見て無条件にかわいいと叫ぶ衆生に、お前は成り下がってしまったのか、と。

 

だが。今日のはきっと、天邪鬼にこそ理解してもらえる論理だろう。説明をつけようとする努力。その虚しさを指摘することこそ、天邪鬼の本領なはずだからだ。