練習する理由

練習は報われるとは限らない。勝負の瞬間において、それまでの過程は無意味だ。目標のために流した汗は、賭けた金は、なげうった時間は、成功をなんら約束してくれはしない。

 

報われるべきなのかも疑わしい。なにをもって報われたとするのかすら、本当のところは定かではない。多くの練習は、とりたてた目標なしに行われる――あるいは到底実現不可能な目標を立てたうえで、真面目に取り合わないことを選択する。

 

当の本人すら、結果を期待しているとは限らない。むしろ本人こそが、いちばん盲目な登場人物なのかもしれない。報われるわけがない、本人以外はすぐにそう気づくであろう努力。善良な人間ほど、練習というハイリスクローリターンなギャンブルに身を投じてしまうのは、自らの客観的な実力を直視することへの恐怖からだろうか。

 

練習という苦役。将来になにがあるのかも見えないのに、ひとは絶望に身を捧げる。いやむしろ、なにもないことを誤魔化すためだろうか。なにもないと、知ってしまっていることを。苦労の価値というご都合主義。

 

だが。それにもかかわらず、練習は尊い

 

わたしたちは信じている。頑張ることは、それじたいがかけがえのない経験なのだと。継続すれば、それだけで値打ちになるのだと。

 

結果は、たしかに出ないかもしれない。だが、そんなことはどうでもいい。真に練習したひとは、ものすごい財産を獲得している。勝ったとか負けたとか、そういうことがどうでもよくなるくらいの。

 

練習に貴賤はない。結果などほんのエピローグにすぎない。

 

世の中の立命テーゼ

 

その命題はいったい、どのようにして正当化されるものなのだろうか。

 

もっともベタな例を考えてみよう。とある都会の高校、その野球部。普通の高校だから、とくに強いわけではない。スポーツ推薦の選手もいないし、肩を並べられる存在もいない。

 

甲子園出場を目標に(すなわちお題目として唱えて)、彼らは練習する。猛暑日でも極寒の冬でも、みっちりと練習は詰まっている。青春すべてをかけた努力。美しい高校生活の、一コマとは到底言い難い部分。

 

そして、夏の大会一回戦。甲子園出場歴もある強豪校と対戦し、五回コールドで負ける。

 

さて、彼らが得た価値はなんだろう。少年漫画なら、かけがえのない友情だとか熱き思い出だとかいった結論に落ち着く。本人たちも、そうやって納得して次のステージへと進んでゆく。たとえ、怪我をしてグラウンドの土すら踏めなかったとしても。

 

そして注目すべきは、そういう価値の形に、野球の二文字は入っていないということだ。

 

野球がうまくなろうと、彼らは練習したはずだ。試合に勝つためか出るためかはさておき、とにかく彼らの努力の目的は野球だ。友情とか思い出のためではない。そんなものは、野球でなくても手に入る。

 

そして野球は、おそらくそれ以降、何の役にも立たない。高校球児の多くは高校で野球を辞める。時速百数十キロで飛んでくる物体を遠くへ打ち返す能力など、野球以外の役に立ちはしない。

 

さて。そうなることが分かっていて、彼らはどんな理屈で練習を続けるのだろう?

 

まあ、答えは分かっている。それに類する経験を、少しでもしたひとなら分かる。

 

練習とは、別に目的に駆られてするものではないからだ。