振り返り:健全な文章執筆

書くという行為の、もっとも健全な姿はなんだろう。

 

書くことの目的には色々ある。もっとも普遍的には、ここにいない誰かに話を伝えること。発した先から消えてしまうことばも、紙に書いて置いておけば、ほかの誰かが読むことができる。古典的な意思伝達手段、だが現代でも最高の部類。

 

全員が同じ場所にいたとしても、文章が無意味になるわけではない。話した内容を議事録にまとめておけば、あとで会議の内容を再現できる。会議のその場においてすらも、文章は有用だ。誰かの話を聞くより、読んだ方が早いことはたくさんある。

 

他にもまだまだ挙げられる。記憶の補助。大量の一時的な情報は、外部記憶に収めておくに限る。歴史書の記述。出来事は書かれることによって歴史になり、ときの権力者の正当性を後世にアピールすることができる。

 

そして、誰かの感情を動かすこと。面白い小説、あるいは結婚式の祝電。

 

さて。

 

この日記の意義は、これらの目的に当てはまるだろうか。

 

おそらく、答えは否だ。ひとつひとつ検証していけばわかる。

 

わたしが書いている内容は、誰かに伝えられるべき内容ではない。伝えられるぶんには構わないが、伝えられなくてもそれでいい。わたしは日記を後から見返さないし、ほかの誰かにとってもそうだろう。もし未来のある時期、この日記が記録としての価値を持つなら、それは悪意ある誰かがわたしの黒歴史や問題発言をほじくり返そうとするときだけだろう。

 

これはメモ書きではない。メモは別にあって、より雑な文章が書かれている。歴史でないのは言うまでもない。小説らしきものは何度か書いてきたが、それが誰かの心を動かすほどの出来だったかといえば、首を縦に振ることはできないだろう。というより、誰かの心を動かそうなどと、わたしは特に意図していない。まあ、意図するべきなのだが。

 

わたしが書くのは、わたしが書きたいからだ。誰かに見てもらいたいという気持ちがないわけではないが、見てもらうために内容を作り替えたりはしない。もしあなたが、わたしの書いた内容を気に入ってくれているのであれば、それはあなたとわたしが同じように考えるからだろう。

 

そして。書きたい内容というのは、そう無尽蔵に湧いてくるわけではない。書きたくないことを書いた覚えこそないが、取り立てて書くほどのことがない日は多い。

 

書き続けることの意味。そのひとつは、確実に失われつつある。なにせ、書きたいから書くのに、書きたいことがないのだから。だからこそこうやって、一年を振り返ってお茶を濁し……おっと危ない。メタな話は、書きたくないことのうちのひとつだ。

 

それでも。

 

わたしは思う。書きたいことがあることと、書く意志があることとは違うのだ。存在価値のない文章、内容のない文章。だがそれとて、文章には変わりない。

 

書かなくてもいいことを書くのに、正当化は必要だろうか。必要ないというのが、いまのわたしの立場だ。ただ、書く。不健全でも、書く。いまは、それだけで満足だ。