まとまらない文章の記録

日記をはじめて四か月ほどになる。正直なところ、わたしにあたらしく日課ができ、これほど長い間つづくことになろうとは思っていなかった。その証拠に、この日記のはじまりには、日記とは三日坊主の代名詞だとつづられている。

 

考えたことを書きたくてつづけてきたこの日記だが、考えたけれど書けなかった題材もたくさんある。いくつかの題材は、考えが文章にできるほどまとまらなかった。ほかのいくつかは、思いついた文章の案があまりにダサかった。なにかに意見したかったけど、その意見があまりにありふれていて、まったく書く価値を感じなかったりもした。どうにかことばにはなったけれど、公開できることばに言い換えられなかったことだってある。

 

もし願いが叶うなら、そんなわたしのもとに日記の天使が舞い降りて、書けなかった題材に思いをめぐらせたことを讃えてくれればよい。そうしてもし、わたしの努力に免じて、書きやすい題材をそっと置いていってくれるなら、わたしはこの一生を、そのすばらしい天使に報いるために捧げよう。しかし現実はそんなに甘くなく、わたしはただ文章にならない思考を抱えたまま、今日のエディタを埋める文章に苦しむことになる。

 

さて、もしわたしの日記をよく読むひとがいるなら、どんなに勘がわるくてもすでに感づいていることだろう。特に隠し立てするつもりはない。わたしは今日、ネタに困っている。

 

ほんとうなら、今日かきたかったのは、誰かの言動を批判するということについてだ。しかしこの題材は、だいぶ難しかった。それならせめて、どう難しいかったかだけでも書き綴っておくことにしよう。

 

基本的には、わたしは批判はすきではない。世の中は、いつでも批判できるなにかをさがしては批判しているが、おおかたの場合、その批判はわたしに無関係だ。それなら、わざわざ批判に同調する意味もない。そして、なにかを批判するひとはたいてい同調を求めてくるから、すなわちわたしの敵だということになる。

 

しかし、わたしだって、わたしに関係のないなにかを批判したりする。そして、そのとき、わたしはわたしを敵だと思っていない。では、わたしはほんとうはなにがすきで、なにがすきではないのか。その問いに対する答えも、その問いが果たして適切なのかもよくわからないから、これはなかなか文章にはならない。

 

もちろん、この問いはいったん保留して、先に進んでもよいだろう。ただしいかもわからないわたしの分析によれば、わたしは、わたしにちかい何かが批判されたと感じたときにだけ反撃する。でもそうでないこともあったかもしれないし、もしあれば、それは日記の文章とわたしの世間体の両方にとって、致命的だ。そしてそもそも、わたしがなにを批判するかというこの分析にも、自信がない。

 

ほかにもいろいろと考えたが、まったく文章になる兆しはなかった。だから、今日は、この題材を考えたということだけを書き残して、文章を終えることにする。もし近い将来、わたしの考えがきれいにまとまった暁には、最高の文章でリベンジをしてやろう。