継続は力なり、と誰かが言った

継続は力なり、と誰かが言った。なんの力なのかは、曖昧なままに。

 

継続。長きにわたって続けること。わたしたちの多くには、なにかしらを続けた経験があるだろう。自分は違うと思ったとしても、いまいちど考え直してほしい。高尚低俗の別を問わなければ、きっとなにかがあるはずだ。呼吸をすることとか食事をすることとかより、ほんのすこしでも非自明ななにかが。

 

たとえば中高生なら、代表的なものは部活動だ。自分を律せないと思い込んでいるひとのなかにも、部活だけはなぜだか最後まで続いた、というひとは多いはずだ。それもそのはず、意志が薄弱であればあるほど、わざわざ辞めてやろうと思わないのが部活というものなのだ。

 

もちろん、例外はある。続ける方が耐えがたい部活もある。実際にわたしも辞めた身だから、それは分かる。そういう奴らは、自分の決断を負い目に感じて、続けるという「正しい道」への不満を爆発させる。

 

まあ、いわゆるノイジーマイノリティというやつだ。

 

ひとが現状を維持するためだけにどれだけの時間的犠牲を払えるのか、彼らは理解しない。続けることにも理由が必要だと彼らは考えるが、現実はそうなっていない。特に意志のないマジョリティにとって、続けられるなにか。自己肯定につながるなにか。なかなかによくできたシステムだ。

 

続けやすいものはほかにもある。辞める方が難しいもの、と言ったほうがいいかもしれない。たとえば、毎年やっている飲み会。誰もが不要だと思っていて、運営の手間がそれなりにあろうが、ああいうものは続いていく。なぜ、と聞くのはナンセンスだ。続けることに理由はいらない。正当な理由が必要なのは、やらないことのほうだ。

 

ソーシャルゲームのログイン。心が離れてしまったゲームでも、毎日欠かさず起動して、ログインボーナスだけは回収する。そうしているうちにまたやる気が再燃して、デイリーミッションをこなした後も、ゲーム画面を閉じなくなる。ゲーム会社の策略、そう分かっていても嵌ってしまうのは、続けないということに抵抗があるからだ。抵抗を利用されているからだ。

 

そんな継続の帰結としての、力とはなんだろう。部活の場合は、競技や分野に関する造詣だろう。続けると野球がうまくなる。将棋が強くなる。うまく、強くなる意志がなくても、それなりには。

 

飲み会。おそらく、力とは人脈か。人脈を欲するかはさておき、終業後の時間の犠牲に見合う価値が人脈にあるのかはさておき、とりあえず、力が手に入ると呼ぶことはできるだろう。

 

ソーシャルゲーム。これは分かりやすい――分かりやすくなるように仕組まれている。ゲーム内資産の拡充は、目に見えて分かる力のかたちだ。

 

では。わたしたちはその力を、本当に欲していたのか。

 

力ならなんでもいいのだ、というのはひとつの解答だ。わたしたちは力を求めてなにかを始めたわけではない。だが続けた結果手に入る力を、わざわざ拒むことはない。

 

継続は力なり、と誰かが言った。なんの力なのかは、どうでもいい。

 

人生に根源的な目標などない。成功を求めるひとが求めるのは、特定の成功ではない。なんでもいいから、何かに成功できればいいのだ。

 

そして力とは、あるだけで成功と呼べるものなのだ。その意味で継続は、人生を彩るための、もっとも簡単な手段なのかもしれない。