暴力の比較論

どんな肉体的攻撃も、あらゆる精神的攻撃を超越する禁忌である。

 

一瞬の肉体的接触。たとえ加害者が長年にわたって、被害者からの精神的圧力をかけられていたとして。罪人はあくまで、圧力に耐えきれずに暴力に頼った側であって、日常的に人格を否定し、禍根を作った側ではない。

 

ことばにはことばで対抗せよ、というのが、社会秩序のための原則である。侮辱や人格否定に対する反撃は、あくまで侮辱や人格否定によって行われるべきだ。決して暴力をふるってはならない。仮に一発の右ストレートが、もっとも円満かつ平和的に事態を解決する場合でも。

 

社会は結局、そういうルールでできている。社会の目指すユートピアとは、実際の平和ではなく、人間関係の物理的な側面がすべからく取り除かれた世界のことだ。

 

われわれはみな、一発のパンチよりも長年の人格否定のほうが重大だと知っている――とうに気づいている、暴力を否定するそのルールが欺瞞にすぎないことに。肉体攻撃を直截的に暴力と呼んで非難し、精神攻撃をハラスメントと呼んで曖昧に誤魔化すこと。そこには、絶望的なバランス感覚の欠如がある。

 

もし完璧なルールがあるとすれば、どんな精神的暴力にも、対応するレベルの肉体的暴力なるものが定義されるであろう。

 

だが完璧なルールなど存在しない。任意の肉体的暴力が精神的暴力を凌駕する。それはたしかに、「良い」ルールではないかもしれない。それでも、より良いルールが存在するということを意味するわけではないのだ。

 

ルールはルール。必要なのだから、仕方がない。なにかを明確に過大評価し、別のなにかを明確に過小評価するとしても。

 

ある意味では、暴力とは核兵器に似ている。使うことは物理的には可能だが、禁忌だ。普段はことばという通常兵器が代わりを務め、暴力じたいは、ことばをエスカレートさせないための抑止力として働いている。

 

似ているのは立ち位置だけではない。威力の面で、個人間の暴力は、文字通り致命的な損害――死のことだ――を与えうる。だがそれは、明確な殺意あるいは大掛かりな装置を用いて急所を狙った場合だけだ。制御された核――すなわち制御された暴力による損害は瞬間的な痛みを与える、そして痛みは、二分後には消え去っている。翌日にはすべて忘れて、普通の生活を送ることだってできる。

 

それはたとえば、数時間の説教が与えるよりも、はるかに小さく平和的な痛みだ。

 

もしだれもが制御できるのであれば、暴力も核も、これほどの禁忌とはみなされなかっただろう。すくなくとも、制御された暴力とされていない暴力を区別する、客観的で明確な基準さえ存在すれば。

 

残念ながら、そんな基準は誰も知らない。わたしも知らない。だからこそ、すべての暴力とすべての核兵器を一律に禁止するという、きわめてアンバランスなルールが設けられるわけである。