ペンは剣よりも弱し

物理的な暴力とは一律に、許されざるものだ。それがどれほど小さなものであろうとも。

 

理由は簡単、小学生でもわかる……かと言えば、意外とそうでもない。他者への侵襲は一律に許されないという道徳的価値観だけでは、説明のつかないことがあるのだ。というのも精神的な暴力は、物理的な暴力と比較してはるかに許されやすい。どちらも、他者への侵襲であるという点では同じなのにもかかわらず、だ。

 

分からなければ、適当な適当な軽い肉体的暴力――たとえば、後遺症の残るわけではない一発のパンチ――を想像してみてもらいたい。そして同程度の損害を与えるだろう、精神的な暴力を。もちろんひとによって、想像する暴力の程度は異なるだろう――パンチに対応するのは数時間の無意味な説教かもしれないし、一発芸の強要かもしれないし、もしかしたら、「結婚しないの?」の一言かもしれない。だがどのみち、パンチに対する法的な処罰に比べれば、精神的暴力への処罰はすこぶる軽い。

 

さて、わたしは別に、処罰のバランスを取れと言いたいわけではない。パンチへの処罰が重すぎるとも、セクハラへの処罰が軽すぎるとも思っていない。ちょうどいいともまた、思っていない――とにかくわたしは、ここで正義を語る気はない。

 

ただ、社会とはそうなっている、というだけの話である。

 

さてでは、何が処罰の違いを作るのか。昨日語ったとおり、暴力は簡単に最大の効力を発揮してしまうからだ。金槌で頭を殴れば誰でも死ぬ――そして相手を金槌で殴るくらいのことは、誰だってできる。簡単に相手を殺すその力が一般的に制御されえないのであれば、一律に禁止してしまうしかない。多少の規模的矛盾には、目をつぶることにして。

 

反面、精神攻撃は弱い。目の前の人間をただ殺すだけなら誰にでもできるが、物理的な危害を禁止されれば話は別だ。もしかしたらそういう攻撃を専門にするひともいて、プロの手にかかれば簡単な仕事なのかもしれない。だが少なくとも、一般の人間にとって、誰かを自殺に追い込むとか呪い殺すとかいったことは、容易な作業ではない。

 

弱いからして、縛る必要がない。制御されなくても、それほど大変なことにはならないから。

 

完全なる、加害者側の論理。社会秩序のために、不可欠な視点だ。

 

ペンはいつの時代でも、剣より弱かった。剣より強く見えるのは、ペンを持つ書士の背後で、剣を握った屈強な強制力が待ち構えているからだ。逆は成り立たない――英雄的あるいは卑劣な剣闘を記録する記者がいようがいまいが、とりあえず、目の前の相手を斬り殺すことはできる。

 

そしてだからこそ。弱く、許されるからこそ、ペンとは便利な武器なのだ。