錆びた金属の地面がひび割れ、足元でばらばらに砕ける。
隙間から奈落が見え、なのにぼくたちふたりは、目下のそれの呼び名について言い争っている。片方のぼくは、これを死だと言う。もう片方のぼくは、それには虚無という名前がついていて、だれでもそう呼んでいたと主張する。
その間にも、世界は刻々と終焉に向かっている。
片方のぼくが酸化と呼び、もう片方のぼくが破滅と呼んでいた現象は、この矛盾した世界を根本から破壊する。この世界には破壊なんてありふれていて、というよりも破壊以外を見た覚えはない。そのたびに、ぼくたちは壊れゆく物質と概念の呼び名について、いちいち言い争っていた。
だが今回のを破壊と呼ぶことに関して、ぼくたちの意見は一致している。これは酸化でも、破滅でもない。いや、酸化でも破滅でも
ぼくたちの比重あるいは目方を支えるものはもはやなくなり、だがぼくたちは落ちない。死または虚無はぼくたちの下にあり、そしてぼくたちが向かう方向は上だ。ぼくたちの両足を通じて、エネルギーあるいはマナがせりあがってきて、そのままぼくたちの身体を、雨雲あるいは天蓋へと持ち上げる。
天空にある、不吉な黒色の板。
どうやらそれは、たこ焼き機なるものに似ているらしい。強情で見栄っ張りなぼくたちがたどり着いた、数少ない合意事項のひとつだ。
たこ焼き機。ばらばらの二人が納得したということは本当に、そうなのかもしれない。
この終わりかけの世界はいわば、たこ焼き機のひとつの穴に等しい。鋼鉄製の穴の中で、ふたりのぼくが混ぜ合わされる。どちらがタコでどちらが紅生姜なのか、そんな論争にはついに、決着はつかなかったけれど。
ぼくたちの出自は異なる。分かるのは、ぼくたちは違う穴から来たということ。そしてふたりとも、雨雲あるいは天蓋へと、同時に召喚されたということだけだ。
そしてこの世界で、ぼくたちは言い争い、喧嘩する。合意できることは、ごくわずかだ。そうして別々の存在であるままに、つぎのたこ焼き機へと向かってゆく。
……考えてみれば、不思議なことだ。
ぼくたちは前の召喚の記憶を持っている。たこ焼き機という喩えを知らなかった召喚の記憶を。召喚される前にいた世界をぼくたちはそれぞれ知っていて、それぞれの世界でもまた、ふたりのぼくが喧嘩していた。
にもかかわらず、いま言い争っているのは四人ではなくふたりだ。前の世界のぼくも、四人ではなくふたりで言い争っていた。四人、八人、十六人、無限に続くべき乗人のぼく。それらすべては、ぼくともうひとりのぼくに集約されて、ふたりの喧嘩を代表している。
ということは。
論理的に考えて、つぎの穴でも同じことが起こる。いまのぼくたちは到底相容れないが、つぎの世界につく頃には、どうやら二人には無視できるほどの差異しか残らないらしい。どういう仕組みでそうなるのかは分からないが、とにかく、そうなる。
分かっているけれど、でも。そんなことが、本当にあり得るのだろうか?