遺影の中のカナタは、見知ったスーツをまとって微笑んでいた。
時代劇に出てくるような長方形の枠の中で、カナタはわずかに揺れた。学校で、会派の集会で、もう何度も繰り返し見た映像。昔の映像特有の視点の摂動は、インタビューアーの額に取り付けられた、古式な記録機器の振動を表していた。
この揺れが吐き気を催さないわけではなかった。事実、この四百回忌に合わせて遺影を編集していた技師は、作業中に幾度となく頭を抱え、トイレに駆け込んでいたらしい。だがそれは、単なる生理的な現象。重要な問題ではない。
大切なのは、遺影が当時を記録していることだ。四百年前の技術形態の、ありのままを。だからぼくたちはあえて、一切を補正せずに、当時のままを流すことを選んでいる。
当時に、撮られたままを。何百年が経過しようとも、忘れないために。
「《インターブレイン》の未来はどうなってゆくと思いますか」 遺影の中のインタビューアーが訊ねた。室内灯――視光量補助システムがまだなかった時代に、部屋全体を明るくしてしまうことで視覚を補助していたらしき機器――がちらつき、カナタの顔にアンバランスな濃淡を映した。粗末な、だが叡智ある補正。四百年前の世界の姿。
カナタは両手を水平に伸ばし、わずかに身体をひねる。滑らかでさりげなく、だがダイナミックな動き。優雅で愛すべき、守るべきだった動き。守られるべきだった動き。
「世界のすべてを根本から変えてゆくでしょう」 そうやって、カナタはありきたりな答えを返す。現代風の映像、カナタの《幻影》にすら、何度も聞かされた返答だ。もちろんカナタは、このインタビューが四百年間流され続けるなんて露にも思わない。
カナタは現代を知らない。知ろうとしても、知れない。
カナタはわずかなライフログを遺して死んだ。
正確に言えば、それはカナタ自身のログではなかった。ライフログが全盛を極める前に、カナタはもう死んでいた。そして、常識的な世界の一部になる前の技術を進んで取り入れるほど、カナタは物好きではなかった。
それなら、いまぼくの網膜を流れているこの映像は。これはカナタのではなく、インタビューアーのログの映像だ。自分の記憶を残そうとはしなかったカナタだけれど、こうやっていろいろな人の中に再構築されて、ぼくたちはその姿を見ることができる。遺影の中のカナタは言うなれば、カナタが他人にどう見られていたか、その集積のつぎはぎだ。ミーハーか、あるいは仕事上仕方なくログを撮っていた人たちの、ばらばらの視線の交点としてのカナタ。
もっとも、当時のライフログはいまみたいに、四六時中撮りっぱなしにしているものではなかった。事情は知らない――データ量の問題ではなかったはずだ――が、とにかく当時はそういう常識だったのだろう。だからカナタの遺影には、必然的に、公的な姿の割合が多くなっていた。
プライベートのカナタは、どんな人間だったのだろう。
……もしカナタが実体ある友達だったなら、ぼくたちはどういう会話をするのだろう。