机の上のダークサイド

おはよう。体調は少しばかりマシになったようだ。

 

とはいえ、いまだ万全とは言い難い。だから普段のように、大上段に構えた文章は書けそうにない。目の前に本もインターネットもなくても、思索に耽り続けて平気で一日を潰せてしまうのがわたしだが、こと病気の時はそうではない。考えるのにだって、体力が必要なのだ。

 

というわけで、たまには身近な物事についてでも書いてみることにしよう。

 

さて、いま一番に目に付くのは、机の上の惨状である。机とはどこにでもありそうなオフィスデスクで、両手を広げるには少し足りない程度の大きさだ。そのど真ん中にはディスプレイ(俗に言う「パソコン本体」)があって、真っ白なブルーライトが燦然と輝いている。右端にはデスクトップのパソコン(「パソコンの横についている謎のデカい箱」のことだ)が置かれていて、サイバネティックなブルーのライトが、真夜中でも変わることのない輝きを放っている。

 

ディスプレイの裏側は、古より続く闇の領域だ。左奥には本が何冊か並んでいて、前回整理しようと試みたときの形跡を、かろうじて垣間見ることができる。机の面に対して本のなす角度は、机の中央に近づくにつれてだんだん水平に近づき、その風景はさながら、ドミノ倒しの一瞬を切り取ったかのようだ。本が完全に水平になったあたりには大量の紙束があり、その内訳は、研究用に使った裏紙から給与明細の入った封筒、あげくにワクチンの接種証明書まで多種多様だ。

 

そんな闇への対処を、わたしはたまに試みることがある。大量の紙片と埃が一掃されるさまは、整理がきらいなわたしですら、結構な爽快感を覚えるものだ。闇が去り、天板という光が訪れたときは、なんだってできるような気分になる。

 

だが暗黒面の強大さは侮れない。三日もすれば、闇の種は息を吹き返し、ディスプレイの裏側はもとの惨状に逆戻りだ。いったいこの量の闇がいかにして生まれるのか、それは万年の疑問だが、もちろん理屈は分からない。分かるのは確実に、紙束とはなんらかの保存則に反するものだということだけだ。

 

とはいえわたしは学習能力のある賢い生き物だから、こういうことを学んでいる――整理整頓とは、一時の爽快さという欲求を満足させるだけの、無意味で刹那的な営みである、と。

 

というわけで、机の上でわたしが自由に使える面積は、机全体のおよそ三分の一ほどだ。こういう状況を見ると、わたしが高校生の頃に通っていた塾のことを思い出す。東京の一等地に教室を構えるその塾は、とんでもない地価のせいで蛸壺のようになった部屋に、とんでもない数の人口を抱え込もうとしていた。

 

生徒同士の間隔を詰めるなどの小手先の対策ではどうしようもなくなった塾は、やむなく禁断の技に手を染めることになる。生徒の学習環境を犠牲にして、机を極限まで狭くしたのだ。

 

わたしの机の状況は、そんな東京の一等地の惨状に似ている。一等地にはないしそもそも東京にもない我が家で、どうしてそんな目に遭わねばならぬのかは理解に苦しむが、なっているものはなっているのだから仕方がない。某塾とおなじく A4 の紙を縦に置けない環境で、わたしは日々、研究と堕落とにいそしんでいる。

 

そして風邪を引いたいま、その隙間はさらに狭くなった。薬が置かれるようになったのだ。