政治参加の規模感

政治に文句を言うことが正当なこととされてから、今日ではそれなりの日が経った。民主主義が興った年は場所によってまちまちだし、いまだかつて興ったことのない場所だってあるけれども、とにかくここ日本では、人間の一生分くらいのスケールの時間が経っている。つまりは、ある程度根付いてはいる。

 

いま目にしているこれが完全な民主主義ではないと考えるひとはそれなりにいるし、確かに彼らの主張にも一定の筋は通っている。しかしながら本当にこれが民主主義ではないのかと聞かれれば、やはりそんなことはないだろう。わたしたちは選挙をして、集計システムはおそらくしっかりしている。時の権力者の対立候補は暗殺されず、政治に文句を垂れるのは自由だ。ある種の思想は、表明すれば炎上や解雇といった私的な制裁を科される場合はある。しかしながらそれは国民が勝手にやっている(とすくなくともわたしたちは思っている)ことだ。それが真の民主主義でないにしても、民主主義だという命題は真であるだろう。

 

さて。民主主義下において、政治参加はよいこととされている。政治参加とは何かと問われれば、もちろん選挙に行くことだ。というより、国民にできることは制度上それしかない、と言ったほうが正しいかもしれない。会場に行って投票箱に紙を投げ込む、それだけのことで「民主主義」とは大層な名前だけれど、とにかく世の中はそうなっている。それ以上のことを制度に組み込むには、一億人は少し、多すぎる。

 

もちろんそれでは満足できないひともいる。わたしはそうではないが、政治に真面目な人たちもいるのだ。そういうひとにとって、投票はたぶん物足りないだろう。真面目に考えた末の行動が、ほかの全員の区別のつかない紙を一枚入れるだけだ……というのはすこし、残酷な気がする。わたしが政治に興味があれば、きっと残念に思うと思う。

 

そういうひとにとって幸いなことに、世の中には選挙活動なるものがある。熱心に布教活動を行えば、自分の意見に同調するひとが増え、自分の投票する候補への票が一票ならず増加する。擬似的にそのひとは、自分の一票だけではない票を投ずることができる。それは形式的な手段ではなく、責任の所在を漠然とさせないという点で民主主義的ではないかもしれない。しかしながら、努力は報われるのだ。

 

そしてそういうことこそを、ひとは政治参加と呼んでいる。実際に投じられる票のほとんどがそういう布教活動の結果のものであると仮定すれば、それを「真の」政治参加と呼ぶのはきわめて合理的な呼び名だ――百票を擬似的に投じることは、一票を投じることの百倍の価値があるのだから。

 

以上はあくまで分析であって、わたしの政治的意見ではない。だから断じて、あなたも真の政治参加をすべきだとかその逆とかを言い出すつもりはない。だから民主主義が壊れているとか、むしろそういう政体のほうがいいとか、そういうことを言うつもりもまた、ない。じゃあなんのためにこんなものを書いたのかと言えば、成り行き以外の説明はできない。

 

たぶんわたしは、政治に参加するということを定義したかったのだ。神聖な権利ということにされてはいるが、あまり行使している気のしないその権利がなんなのか、調べたかったのだ。一億とは大きな数だから、国家の未来に期待値で一億分の一の影響を与える選択と言われても、正直ピンと来ない。一億人が入る会議室で得られる発言権とは、いったいどういうものだろうか。

 

まあ、知らなくても困ることではない。ただ、わたしにはなんでも分析してみないと気が済まない癖があるだけだ。