メモ:九か月ぶんの集積

やはりテーマは思いつかない。ここはひとつ、過去のメモでも漁ってみることにしよう。

 

メモ。正確に言えば、"memo_210609.txt"。ふとした思い付きを記録しておくため、去年の六月に生成されたテキストファイルである。ファイル名が日付なのは、当時はほんとうにただのメモ書きに過ぎなかったからだ。おそらくはこの前にも、別の日付のメモがあったのだと思われる。探せば見つかるかもしれないが、探す気はない。すくなくとも、デスクトップにあるのはこれだけだ。

 

物理的実体はない。テキストファイルなのだから、当たり前だ。電子媒体とはすぐに消えてしまうもの、と思われがちだが、それは違う。すくなくともわたしがいまメモを参照できるのは、電子的に残されていたおかげだ。紙ならば、間違いなく忘れ去られていた。机の向こうに追いやった紙は、二度と発見されることはないだろうから。

 

そして、それ以上に。わたしは字が汚い。ゆっくり書けばそれなりにはなるが、ゆっくり書こうと思うことはない。字と言うよりはミミズの群れに近いそれは、どうやらひとつの漢字の六、七画が、ひとつにつながってできたものらしい。本人は日本語だと主張するが、ひとに見せればこう言われる――「アブジャドは読めません」と。

 

かくして、紙のメモは用をなさない。昔のわたしが書いた文字。誰にも解けない最強の暗号は、あまりに強すぎるために、未来のわたしにだって解かれえない。

 

だがテキストファイルは生き延びた。データであるがゆえに。

 

九か月間続いたメモは、優に三百行を超える。ひとつのことに費やすのはたいてい一、二行だから、まあ、そこそこの量だ。ファイルを分けるのも、さらにはファイル名を変えるのすらも億劫で、メモは日に日に膨れ上がってゆく。

 

同じファイルをずっと使い続けるなどとは、作った当時は思わなかっただろう。それゆえに、ファイル名に日付は残された。何の変哲もない日を、ことさらに重要な日かのように。歴史とはおそらく、こういう偶然性の糸から紡がれるのだろう。

 

残念ながら、メモは歴史たる重要な要件を欠いている。どの記述がいつ行われたのか、てんでさっぱりなのだ。最初の記述が、二〇二一年六月九日に行われたことはわかる。最後の記述がごく最近なのもわかる。内容がだいたい時系列順に並んでいることも分かる。だが特定の記述が具体的にいつのものなのかは、まったく分からない。

 

まあ、日記と照らし合わせればわかるだろう。メモの記述の大部分は、日記の題材についてのものだから。もっとも、わかったとしてメリットはない。日記と日々の出来事とは関係ないのだから、いつのメモだろうがどうでもいい。

 

最初の記述は……どうやら、小説の原案なようだ。ちょっとテーマが難しすぎて、書ける気がしない。よくよくメモを見返してみれば、笑いごとのような事実に気づく。上から下まで、どうにも書けそうにないテーマばかりだ。

 

……何のためのメモだ。ははっ。ひとつだけわかることは、わたしは新しいテーマを考えねばならぬ、ということだ。