ぐぅ、と間の抜けた音が鳴った。
令嬢は戦っていた。自分自身と、戦っていた。牛丼屋のカウンターを、自分色に染めつづけながら。場違いな気品を、純朴のイコンへと昇華しながら。
第一の対戦相手は空腹だった。鳴ったのは彼女の腹だった、その場の全員がそう気づいていた。本来それは、彼女からしてはならない音だ。それは、彼女が生き物であることの証拠だから。自分自身をこの世のものだと証明して誰もを幻滅させてしまう、堕落と退廃の音色だから。
だがそんな音すらも、彼女の魅力に彩りを与えていた。天使か何かであることを放棄してまで、彼女は食券を買わない。それはすなわち、彼女が無知である証拠。無知である可能性すら疑わず、一途にウエイターを待っている証拠。
彼女が彼女である証拠。ステレオタイプの強化。
彼女は空腹に屈しない。いや、屈する方法を知らない。ウエイターなどいないと疑うことを。彼女以外の全員から、彼女はそう見えている。
そう、全員から……
だが第二の対戦相手は、そういうふうには彼女を見ない。その相手は、彼女の欺瞞を知っている。なぜなら相手は、自分自身の心だから。
彼女は空腹に屈しない。屈することはできる。できるが、屈しない。この場を壊さぬというプライドがゆえに。ステレオタイプをステレオタイプと知っているがゆえに。
だが、生理現象は正直だ。彼女の腹は鳴る、より大きく、より長く。額の汗が、格調高い化粧を滲ませる。青ざめた唇がわずかに歪む。全身から漏れ出す彼女自身を、彼女は隠しきれない。
極度の疲労の中、彼女は思う。
……もう屈しても、構わないんじゃないかしら。
これ見よがしに、令嬢は辺りを見回す。存在しないウエイターを探すように。券売機の存在に、ようやく気付いたように見せかけるように。
自分が自分であることを、やめていい理由を探すように。
空間が綻ぶ。高級店の影に罅が入り、チェーン店の退廃が顔を出す。部活終わりの高校生の一団が、破壊せんばかりの勢いで扉を開ける。奴らは彼女に気づかない。券売機に向かいながら、男共は露骨な猥談の声を落とさない。
彼女が立ち上がる。最後の優雅さを振り絞って。
そして背後から、下世話へと近寄ってゆく……
……
知らぬことを知らぬと言うのに、そう大した勇気は必要ない。知らぬものは、知らぬのだから。知れば、二度と恥をかかなくて済むのだから。
知っていることを知っていると言うのは、比べてはるかに難しい。それは不可逆な変化だから。知らぬと思われている状態には、もう二度と戻れないから。
知ることは、知らない可能性を犠牲にすることだ。アイデンティティを犠牲にすることだ。永久に、不可避に。知識というリンゴ。黄泉の国の食べ物を口にした神の結末。一度ついた穢れは、二度と落ちることはない。
だから我々は嘘をつく。知っていることを知らないと言う。憶えていることを忘れたと言う。本当に知らずにいることも、本当に忘れることもできない我々は、なにが美なのかを計算して、自分の言動を決める。
無垢の対極にある美。その虚像を追いかけて、正反対の向きに突っ走る。
果たして、その先には。
蜃気楼を追った先に、別の美はあるのだろうか。