彼女は券売機に向かう。足音にすら可憐さを宿して、高校生の後に並ぶ。つとめてやわらかな足取り。計算された優雅さ。
彼女は知っている、こういうときどう振舞えばいいかを。どう振舞っているように見せればいいのかを。知っていることは穢れの証、だが穢れは役に立つ。
指針一、変わらず優雅でいること。
失敗の後こそ、育ちの良し悪しが出るものだ。むろん彼女は、それが嘘だと知っている。本当に育ちの良いひと、なんていう架空の存在に押し付けられた、身勝手な幻想にすぎないのだと。
だが、そんなことは問題ではない。失敗の後に育ちが顔を見せる、そう信じられていることが問題なのだ。正確に言うなら、こう。
失敗の後こそ、言動の良し悪しが問われている。だから彼女は、空腹に耐えて優雅を選ぶ。
厨房の店員が残念そうに、券売機の方向を眺めている。生き甲斐がひとつ、壊されてしまったかのように。
指針二、可愛げを見せること。
無知はたしかに美だ。だからこそ、彼女は美しい。だからこそ、彼女は美しく見えている。
だが同時に、無知とは誇ってはいけないものだ。彼女の義務は、純粋であること。無知をひけらかさないこと。その表れとは……
……すこしばかりの、気恥ずかしさ。彼女が感情を持つことの証明。天界の生き物ではなく、人間であることの証明。
彼女はたったいま、初めて食券を知った。ウエイターが来るものだと、これまでずっと信じ込んでいた。待ち続けていたことが意味することを、ようやく知った。それらが真実ではないとはいえ、この場の誰もが、そういうふうに彼女を見ている。
まだ、そう見てくれている。だから、幻想を壊してはいけない。
彼女は機械へと向かう。気品を保って、だが心なしか早足で。恥ずかしげに、肩を縮こまらせる。両肩に仮留めした彼女自身が、剥がれ落ちてしまわないように。
オーラが気流を変える。夏の朝のように気温が上がり、もしくはそよ風のように下がる。そうすることが規則かのように、高校生たちが道を開ける。
彼女はゆっくりと、だが素早く財布を取り出す。まっすぐな一万円札を取り出し、投入口に入れる。説明書きを読んでいるふうを装い、だが流れるような動きで。
使い方を、知っていると思わせてはいけない。だが、遅いと思わせてもいけない。
食券を取り出す。令嬢は席に戻る。その間も、優雅と可憐は完璧なバランスを描いている。興味津々の店員に、食券を渡す。空気が揺れる。どこからか拍手が巻き起こる。彼女が演じ切ったことに。彼女が彼女であり続けたことに。
ほどなくして丼が届く。立ちのぼる湯気に、初めて見る湯気に、彼女は目を輝かせる……
演じられた美は、はたして美なのか。
ひとが思うほど、他人は自分に興味がない。自分の中が欺瞞に満ち溢れて、とても隠し通せているとは思えないときでも、ひとは意外と気づかないものだ。その美が無垢でも何でもなく、計算されたハリボテであることに。
真なる無垢も演じられた無垢も、他人にとっては同じ無垢。言われなければ気づかない瑕疵。
外から見ると、美しく見えること。
きっと、美とはそういうことなのだろう。いや、そう定義するしかない。
自分自身を評価した瞬間、無垢は壊れてしまう。だからこそ、自分から見た自分は、美しくはありえない。美しくないから、自分を評価する。真に美しいひとは、そのひと自身に興味がない。
だから、他人の目を使うしかない。究極の無垢であるためには。自分自身を、すっかり消去してしまうためには。
牛丼屋の令嬢。彼女自身がどう思おうと、彼女は美しい。自分を騙しきれずとも、彼女は純粋だ。
そしてその純粋こそ、彼女の美の実像なのだ。