「さっきぼくは、美人が性格が悪いと思われているのはそうじゃなきゃ不公平だからだ、っていう考えを紹介したね。で、それは嘘だと証明した。
でも、ある面だけ切り取ってみれば、そう主張する人たちの考えはじつはすごく正しい。美人が性格が悪い、っていう共通のことばを、彼らは真の答えを鏡写しにしたように、ぴったり真逆の方向から見ている。ある意味では、彼らはニアミスだと言ってもいいかもしれないね。
どういうことか。謎かけをするつもりはないから、答え合わせに行くよ。
顔がいい奴は性格が悪くなければ不公平だ、と考えるひとが仮にいたとしよう。そんな彼らはきっと、美人を見たら、こいつの性格は悪くあってほしい、と思うのだろう。もちろん、見ただけで本当の性格なんて分かるわけがないけれど、とにかく彼らはまず、性悪というレッテルを美人に張り付ける。
彼らにはもちろん、現実が見えていない。性悪であってほしいという願望の色眼鏡で現実を見て、彼らは判断を早まる。
ほんとうは判定不可能な問題に無理に答えを出して、すぐに正しさを確信してしまう。美人はみな性悪であってほしいから、目の前の美人を性悪だと認識する。
そして、美人は性格が悪いという、早まった認識を強める。
まあもっとも、そんな奴が存在するのかどうかぼくは知らないけれど。
だが現実の人間だって、想像上の彼らと似たようなものだ。美人は性格が悪いと考えるひとは、彼らとおなじく、美人は性格が悪くあってほしいと考えている。願望の色眼鏡で現実を見て、真実を早とちりして歪めている。
ただし、そう願う原因だけが違う。
現実を歪めるのは、不公平を拒否する心じゃないんだ。
答えは、まったく逆だ。ぼくたちは不公平を――それを不公平ということばで呼ぶかはさておき――むしろ歓迎している。
さあ、もう答えにはお気づきだろう。美人は性格が悪いと考えるのは、性格の悪さというマイナスで美人というプラスのバランスを取るためではなく。
性格の悪さというプラスで、美人というプラスを際立てるためだ。
性格の悪い美人は魅力的だ。傲慢で自信家、人を人と思わぬ態度。近づくすべてを破滅させながら、自分は無傷でいる胆力。世界は自分のためにあると公言し、そしてそのエゴはいつも通る。
あるいは、癇癪。それが与える影響を、すべて計算したうえでの涙。被害と迷惑を振りまきながら、すべての慰めと交渉を拒否する傍若無人。恩を仇で返す。美人だから、許される感情論。
そんなステレオタイプを、ひとは美人に押し付ける。その姿が魅力的であるがゆえに。
妄想の中の彼女らを、美人なだけではなく性悪ですらある、理想の存在へと近づけるために。
ひとが美人を見たとき、公平性の概念は消え失せる。天は二物を与えずという平等性の原則に反して、ひとは彼女らが、二物も三物も持っていてほしいと希求する。
理想的な美人。性格が悪く、完璧に魅力的な美人。
そしてその理想を、ひとは現実だと誤解する。
実際の彼女らがどうかは関係ない。美人だが残念ながら性格がいい、そういうことはいくらでもありうる。むしろ、そういうことの方が多いだろう。美人の顔につりあうほど性格の悪いひとなんて、めったいにいないのだから。
だから、いくら美人の知り合いがいたところで、ひとは美人は性格が悪いのだと言い続けるだろう。そうあってほしいから。
まだ見ぬ世界のどこかに、理想の存在を求めて、ひとは美人を性悪だと褒めたたえ続ける。」