むかしむかし、めでたしめでたし

身近な他人とは、誰かの人生に喜びをもたらすもっとも普遍的な機構だが、実のところ彼らがやっているのは、その誰かの人生を縛り付け、彼らの価値観でがんじがらめにすることだ。交友関係の広さゆえに全方面に気を遣うことを覚えた博愛主義者とは、なにか大きなことを成すだけの野心とバイタリティからもっともかけ離れた存在であり、仮に唯一無二の才があろうとも、彼らはその才能を名声に変換する機会をことごとく奪われ、ローカルな人間関係という目標のないゲームをイージーモードでプレイし続けて一生を終える。

 

そのくせ彼らは、自らへと向けられる無償の愛と友情とをかけがえのない宝物だと考えているせいで、その手のお節介こそが自らの発展を邪魔していることに気づきすらしない。いや、それならまだマシだ。現状はもっと悪く、彼らは他人の親切を神のお告げか何かだと勘違いしていて、そんな親切を疑うことは彼らにとって冒涜に等しいのだ。だからたとえ真の意味で親切な誰かが、交友こそが癌であるというきわめてまっとうで建設的な指摘をしてくれたとしても、お花畑の友情主義者どもは、それを悪魔のささやきか何かだと考えて一切考慮に入れないだろう。そうして、数々の他人のあいだで価値観をたらいまわしにされ続けたまま、老衰で死ぬことだろう。

 

だからこそ、才能ある誰かに冒険をさせたければ、彼らに親切にしてくれる他人をひとりひとり、地道に排除してゆくほかはない。一番単純な方法は皆殺しにすることであり、だがこと広い交友関係を持つものにとって、その方法はあまりに不自然で、かつ大掛かりだ。あるいは殺すかわりに少しばかりバリエーションを設けて、親を旅に出させたり、戦地に赴かせたり、犯罪者に仕立て上げて収監させたり、他の誰かを亡くしたことを悲しませて精神に異常をきたさせたりしても良いかもしれない。だがその場合も、愛されるのに慣れた人間は冒険を始めるのではなく、また別の誰かを頼り始めるのが関の山だろう。だからもっとも有効な方法は、まだ彼らが幼少のうちに何らかの方法で才能を見抜き、まわりに大きな交友関係が構築され始める前に、運転席の父親あるいは母親の目にレーザーポインターを照射して、運転する車にガードレールを突っ切らせることだろう。そうすれば、孤独を基底状態として育った彼らの冒険は、誰にも縛られることはなくなるだろうから。

 

……さて、以上はもちろん、現実の話ではない。わざわざリスクを冒して事故を起こさせるほどにわたしはわたし以外の才能に興味ないし、わたし自身に関しては、もう冒険への興味など失ってしまった。だが多くの世界で、その世界の造物主は、何かを成し遂げるべき人間の両親を夭折させたり、あるいは収監させたりする。その目的はたしかに、劣悪な家庭環境を通じて主人公を成長させることにあるのかもしれないが、おおかたのところ、物語にとって身近な人間とは邪魔な存在だからだろう。実際、もし身近な人間が全員健在なら、物語はこれで終わってしまうのだ――「むかしむかし、めでたしめでたし」と。

 

愛に恵まれ、冒険に恵まれぬ家庭環境で育とうとも、われわれはなぜだか、正反対の境遇の主人公に共感する。真の孤独など実際には感じたこともなく、すべての価値判断が他人の目に影響されているのにも関わらず、われわれは孤児院で育つとはどういうことなのかを勝手に想像し、予測不能カタルシスに酔う。実際のところ、物語を摂取するとき、われわれは親切の害悪性に気づいているのかもしれない。そして、われわれが真に欲しているのは試練の先の成功などではなく、孤独という試練そのものなのかもしれない。