自由という正義

道徳には従ったほうがいいとされているのは、おそらく道徳という概念が、世の中のこまかな秩序を保つ役割を担っているからだろう。世の中にはたくさんのミクロな関係性があり、その多くは基本的に、明文化された規則と罰則では対処できない。そういう問題を解決したり未然に防いだりするためには、ひとが取るべき行動に対する理解がある程度共有されている必要があって、それを逐一ノンバーバルに定めているのが道徳であるというわけだ。

 

逆に言えば、だからこそわたしたちは道徳を窮屈に思う。明文化されていない規則は規則ではなく、そんなものに従って行動を自粛するのは息苦しい。道徳を破ろうと試みる場合ですら、その窮屈さはついて回る。すなわち法律と違って道徳は、どのような状況でどれくらい破るとどんな罰が与えられるものなのか、どこを見ても教えてもらえないからだ。

 

かくしてわたしたちは、道徳を無視できる人間に憧れる。法的拘束力がない曖昧なものに、縛られない人間になりたいと考える。破天荒と呼ばれる人間に近づきたいと思う。一切の曖昧さを排して自分の道を貫き通す強い意志の、おこぼれにでも預かりたいと思う。

 

しかしながら現実は面倒だ。道徳をみなが信じている以上、道徳を無視すればそれなりの制裁に遭う。理想的な強い人間とはその手の制裁を無視できるものだが、残念ながら自分はそうではない。ならせめて他人の自由さにあやかろうと妥協したところで、また別の面倒が発生する。道徳を解さない人間のそばにいるのは疲れるし、もし深い関係を築きたいと思えば、今まで以上に空気を読まなければならないのだ。破天荒な人間の言う「自由」とは、またべつの道徳観念に過ぎないのだから。

 

というわけで、ひとは現実を捨てて創作へと向かう。現実世界の破天荒にはいろいろと面倒な問題があるが、創作の中ならそうではない。わたしたちは破天荒な行動を追体験できるし、破天荒な人間の誰よりもそばにいてなお、傷つかずにいることができる。些細な道徳を無視したところで、より大きな目的で上書きしてしまうことができる。共犯者の人格に不快な思いをさせられることなく、共犯者を手助けしてあげることができる。

 

そして大方の場合、それで満足できる。

 

まことに残念ながら、道徳とはそう悪いものではない。思春期には反抗したくなることもあろうが、大人になっても受け入れられないような代物ではない。受け入れたほうが楽だからわたしたちは道徳を受け入れている。そのことを内心苦々しく思いつつも、あえて反抗することはない。所詮、道徳とはその程度のものだ。

 

そう考えれば。道徳を無視する人間にわたしたちが憧れる理由は、わたしたちの遂行すべきだった正義をかれらが代わりに実行してくれているかもしれない。道徳に従わない、自由な人間でいるという正義を。