具体への抽象論

およそ物語には起承転結があり、どの部分もそれぞれに固有の役割を持っている。作者は読者に、最初の「起」で世界の姿を、「承」ではその世界のうえで、物語がどう進んでいくのかを伝えることになる。「転」で物語は急転換し、そして最後の「結」で、事件が世界を、主人公をどう変えたのかを語る。ファンタジーが盛り上がるのはいつだって「転」の部分だが、それは周到な準備と後始末によって引き立てられているのだ。

 

さて、「起」の部分では、作者は読者を、じぶんの作った世界に引き込まねばならない。じっさい、「起」ではよく、主人公が小さな事件――たとえば、ほんとうにくだらない理由で死にかけるなど――に巻き込まれることになる。その事件は基本的に、物語のあらすじのうえではたいした役割を持たない。その真の役割は、事件をつうじて、読者にその世界がどうなっているのかを覚え込ませることだ。

 

だが、「起」はある意味では無理難題だ。作中世界など作者の妄想にすぎず、読者がそんなものを知る道理はない。それなのに作者は、その妄想の世界が、あたかも実在しているかのように読者を錯覚させなければならない。嘘を嘘と見抜ける判断力のあるはずの読者に、一時的にでも、嘘を真実だと信じ込ませなければならないのだ。

 

そのもっとも普遍的な手段は、読者をことばの物量で押しつぶし、判断力を鈍らせてしまうことだろう。作者は読者を我に返らせてはならない、なぜなら、そうすれば読者はこの世界が嘘だと気づいてしまうからだ。そしてそのためには、読者に考える隙を与えてはならない。嘘は言い続ければ真実になる。そして言い続けなければ、すぐに嘘に戻ってしまう。

 

さて、この日記では普段、わたしは抽象的なことばかり書いているが、それでは読者を騙せはしないだろう。なぜなら抽象の価値とは、読者を考えさせることだからだ。抽象的な名言とは、しばしばひじょうに短いことばだが、それでも名言として成立するのは、そのことばを読者が解釈し、具体的な状況にあてはめ、自分のものにできるからだ。したがって、よい抽象は物量ではありえない。言い換えれば、読者を押しつぶすだけの物量は、間違いなく具体的なのだ。

 

というわけで、わたしはそろそろ、具体の領域に手を出さなければならない。そしてさいわいなことに、具体は原理的には抽象より簡単だ。描くべき世界の姿が見えているのなら、ただその通りに書くだけなのだから。具体を描く目的は読者を考えさせないことなのだから、そんな文章には、一切の含蓄も、技巧も、本質を突こうという野心も必要ないのだ。

 

だが困ったことに、わたしは具体を書きなれていない。なぜならわたしは、まわりの人間の例にもれず、説明を与えることによってものごとのすべてを知った気になってきたからだ。たとえばわたしはウィキペディアを読み込むのに時間をついやし、現地に赴いて空気を吸うことをしてこなかった。大学院でわたしは、浮世離れした数学の理論を研究し続けている。挙句の果てに、具体的なことを書かねばというこの文章すら、わたしは抽象をこねくり回して誤魔化しているのだ。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶと言うが、わたしに必要なのは賢者と語りあう手段ではなく、愚者を手なずけることばの暴力的な奔流だ。

 

では、わたしの問題はどこにあるのだろうか。そんなものは挙げればきりがない。たとえば、世界の作り込みが甘い。あるいは、わたしの文章は抽象のまま進んでいくから、そこに具体の入り込む余地がない。ほかには、わたしには経験が絶対的に足りないから、書を捨てて街に出なければならない。迷ったとき、そうやって抽象はありとあらゆる説明をくれる。だが描写の具体的な姿だけは、まったく与えてくれそうにない。

 

さて、できないことをできるようになるための方法はひとつである。そう、具体が描けないのなら、具体を描いて練習するしかないのだ。もっとも、どうすれば練習できるのかは、いまいちよくわからない。今日だって、わたしはわたしの議論を補強する具体例をいくつも用意してから書き始めたのに、結局その例を、文章の中に入れ込む余地はなかったのだ。

 

だがおそらく、悲観することはないだろう。わたしは具体の具体的な姿こそまだ描き出せないが、その方法を考えるのはむしろ抽象の役割だ。だから、今日はまだわからないその方法だって、わたしはいずれ知ることになるだろう。たしかに抽象は具体でこそないが、具体を間接的に作り出すことはできるのだから。