ブラックボックス信仰の指針書

近世以降、宗教と科学はつねに対立を続けてきた。すくなくとも西洋では、はじめのころの宗教は科学に優越していて、たとえばガリレオ・ガリレイのように、キリスト教の教えに反するとして投獄される科学者もあった。現代の西洋では、科学はおおかたのばあい宗教に優越するように見えるが、それでもなおアメリカでは、学校で進化論を教える是非についての議論が続いている。

 

さて、宗教も科学も、どちらもだれかのことばを信じるいとなみだ。宗教家のほうは、神のことばや、それを聞いた誰かのことばを信じる。科学の徒のほうは神を盲目的には信じないが、そのかわり、高名な科学者の、あるいは科学者コミュニティのことばを信じる。どちらもだれかのことばを真実とする以上、宗教と科学は、似すぎているくらいよく似ている。

 

だからこそ、宗教と科学は対立するのだろう。よく似ているからこそ、互いは信者を取り合おうと躍起になるのだ。古代から続く宗教と違って、科学は後発だから、宗教との差別化にあらゆるレトリックをもちいる。そのもっとも代表的なのが、科学の検証可能性だ。

 

科学者たちは言う。科学のどんな結果も、実験と論理的考証によって導かれるものだから、その気になればだれでも、科学的事実を再現し、批判することができる、と。だから科学は無批判な宗教などとは違うのだ、とこの議論は続いていく。

 

もっともこの議論は、いやこの方便は、まったくばかげている。科学の道具がせいぜい望遠鏡くらいであったころには、この議論は間違いとはいえなかったのかもしれないが、すくなくとも現代の科学は、個人的検証の不可能な礎のうえに成り立っている。なぜなら現代の個人は、口径数百メートルの天体望遠鏡も、直径数十キロメートルの加速器も、はたまた電子顕微鏡やスーパーコンピュータすらも持ち合わせていないからだ。

 

だから現代の科学は、まったくもって信仰に過ぎない。実験装置が不要な分野ですら、科学はやはり信仰だ。たとえば数学は、ひとりの数学の徒が追いかけるには発展しすぎている――数学科の学生が四年間をかけても、分野の最先端には追いつけないほどに。さらにいえば、わたしたちがいかに努力して最先端に追いつこうとも、そこから見える景色は、科学と宗教が異なるなどという壮大な物語ではない。わかるのは、その分野のその特定の先端が検証可能だった、という微細な事実だけだ。

 

さてわたしはどうやら、そんな科学の宗教性が好きなようだ。科学は検証こそ難しいが、そのかわり宗教と同じように、定理や法則といった信仰対象を提供してくれる。その中身こそ見当もつかないが、それでも表層的にはわたしにわかるように記述されている、そんなブラックボックスを。

 

例をあげよう。わたしがブラックボックスとして使った最初の定理は、初等幾何学三平方の定理だろう。小学生のわたしは、長らくその証明を知らなかった。それでも、直角三角形の辺長の二乗に関するその不思議な等式を、わたしは問題なく使いこなすことができた。そしてそれを皮切りに、わたしは多くの定理を、やはりブラックボックスとして使ってきた。

 

もっとも、いまのわたしは三平方の定理を証明できるし、それ以外にもたくさんのブラックボックスの中身を知っている。そしてもちろん、ブラックボックスの中身を知るたび、わたしはそこそこの感動を覚えてきた。

 

だがどうやら、わたしはその感動を、たいして求めてはいないようだ。思うにそれは、信仰に理解は必要ないからだろう。わたしはブラックボックスを、中身を知らぬままにただしいと信じている。そして中身を知ったところで、信仰は揺らぐことも、強化されることもない。

 

さて、わたしは研究者だ。そしてもちろん、わたしはわたしがよいと思う研究をしたい。だから、わたしがやりたいのは、あたらしいブラックボックスを生成することだ。まったく分野を知らないひとでも、とりあえず主張を見れば理解できる、そんな定理を。

 

おそらくそれは、理解という試みとは対極にあるのだろう。だから、物事を理解したがる研究者にとって、わたしの理想は数奇にうつるはずだ。だが、それでいい。わたしが求めているのはおそらく、理解ではなく信仰なのだ。