恋の可否判断

あたらしくなにかをはじめるとき、ひとはだれでも素人だ。はじめて学校に行き、授業とは何かを知ったとき。あるいははじめてスポーツクラブに行き、あらぬところが筋肉痛になったとき。そんなときわたしたちは、見たことのない景色を垣間見る。この意味で、あたらしい挑戦はいつも、発見に満ち溢れている。

 

その発見は、心地よいこともあるし、そうでないこともある。たいていの場合、垣間見た景色は荒涼として魅力に欠けるか、あるいはただただ不快だ。そしてそういう場合、そのあたらしいなにかに、わたしは手を出さないことにするだろう。進んでも得るものがなさそうだったり、苦しいだけだと思った道は、進まないほうが吉だ。

 

だがたまに、わたしはあらたな発見の中に、素晴らしく美しい景色を見ることがある。そんなときわたしは、その景色にたちどころに魅了され、言うならば、恋に落ちる。その景色を見るために一生をついやしてもよいと確信できるほどに、盲目な恋に。

 

さて、わたしが恋に落ちる景色はそう多くはない。一見してすばらしい発見におもえることでも、一度冷静になってみれば、たいていは役立たずだ。たとえばその景色は、すでに見たことがあるなにかに似ているかもしれない。あるいは、その景色を見るうえでの論理的障壁が、わたしの盲目を補ってあまりあるサイズ感で、でかでかとわたしの視界を覆いつくすかもしれない。

 

そのようにしてわたしは、あらたな発見のほとんどを棄却することになる。字面のうえでは、それは寂しいことのようにも思える。しかし本来、恋は一生に一度すればよいのだ。なぜなら、わたしはその恋に一生を捧げる決意をするのだから。

 

だが困ったことに、ほとんどを棄却してなお、魅力的に見える景色は多すぎるのだ。

 

研究者をこころざし、みずからの方向性を決めよと口々に言われるようになって以降、わたしはいろいろな研究分野という恋愛相手を検討してきた。わたしは各分野を本気で愛そうと試み、そしてそのたび、わたしはその相手が素晴らしいさまざまな理由に気づいた。たとえば、論理展開が面白い。わたしが得意ななにかに似ている。あるいは、簡単そうに見えるのに、まだ誰も手を付けていない。

 

かくして、わたしの恋は論理に裏打ちされる。わたしはその分野を、ただあいまいに好んでいるわけではない。論理的、実践的、戦略的に考えて、わたしはその分野に身を捧げたいし、そうするべきなのだ。逆に、以前にとりくんでいた分野は、論理的欠陥のパラダイスだから、まったく専門になどするべきではないのだ!

 

さて、数ヶ月が経ってわたしの目が見えてくれば、わたしはその相手の欠陥に気づく。さすればその相手の魅力は薄れて、論理的欠陥のパラダイスとわたしが呼んだものの仲間へと、晴れて加わるわけである。その数ヶ月の浮気がもし成果を挙げれば、まだ傷は浅い。わたしは生涯の伴侶こそ見つけられなかったが、ある程度いい友を見つけたわけだから。だがもしそうでなければ、わたしはただ、道を踏み外しただけ。

 

こうして、わたしは成就しない恋に落ち続けて、いろいろな分野をとっかえひっかえしてきた。そしてもういい加減、そんなせわしないいとなみには疲れてきた。だからわたしはそろそろやめにしたい。数ヶ月の遊びに過ぎないものを、恋だと錯覚してのめり込むのを。

 

では、わたしはどうすればいいか。恋は盲目だから、わたしの感情だけを頼りに判断すれば、わたしはいつまでも、あたらしい分野の魅力に流され続けてしまうだろう。はんたいに、すべての恋をシャットアウトすれば、わたしはただやることをなくすだけだ。わたしが恋だと思うもののほとんどがまっとうな恋ではないとわたしは知っているが、だからといって、すべての恋を不純だと断じても仕方ない。

 

だからおそらく、わたしはわたしのやることを、恋にはたよらずに見つけるべきなのだろう。恋とは、かように信頼できないものだからだ。そのとき、わたしが生涯の伴侶を決めるきっかけは、だれかへの恩かもしれないし、世の中への不満かもしれない。あるいは、目玉が飛び出るほどの大金かもしれない。だがいずれにせよ、わたし自身の感じる魅力以外に、わたしはなんらかの判断基準を必要としている。