あたらしい積分路を

数学をすると聞いて、あなたは何を想像するだろうか。

 

かりにあなたが高校生で、つぎかそのつぎの春に大学受験を控えているとしよう。その場合、あなたにとって数学をするとは、問題を解くことだ。参考書の問題にせよ、塾や学校の課題にせよ、あなたは既存の問題を解くことをつうじて、みずからの数学的能力を高めようとしている。そしてそのいとなみこそ、数学をするということだ。

 

もしあなたが数学科の学生ならば、事情は異なる。数学科の学生は、教科書の演習問題を解くことを数学をするとは呼ばない。かわりにただ、演習問題を解く、と呼ぶ。あなたにとって数学をするとは、もっと高尚ないとなみだ。難解な教科書を読み、複雑な論理展開に頭をひねる。あなたの目はひとつの数式に釘付けになり、あなたの手はページを繰るのを忘れ、わからんわからんという唸り声が、あなたの腹の底から聞こえてくる。あなたは苦しみ、うめき、……そしてその先に突如、広大な世界がひらける。その世界を見るための努力と、世界を拡げる喜びこそ、あなたが数学をするということだ。

 

あなたが工学部の学生ならば、おそらく事情はさらに異なる。わたしはあなたのコミュニティとたいして親しくないから、もしまちがっていたら申し訳ないが、おそらくあなたにとって数学をするとは、系を計算で解析することだろう。あなたの目の前の実験系は、たとえばある微分方程式でモデル化される。系のパラメータを調整するために、あるいは実験結果を解釈するために、あなたはその微分方程式を解く。あなたは、数学を道具として活用している。言い換えれば、あなたは数学をするというよりは使っている。

 

さて、わたしの話をしよう。数学科にこそ進まなかったがそう志していたことはあるから、わたしにとって数学をするとはやはり、先人の作った体系を鑑賞することだ。美しい世界を眺めることだ。では、はたしてわたしは数学をしたいのだろうか?

 

五年ほど前、わたしはこの問いに悩んでいた。そのとき出した答えはいまでも納得のいくものだから、あのときのわたしはきっと正解していたのだろう。わたしがしたいのは、数学を使って数学の問題を解くことだ。

 

ひとつ例を挙げよう。大学数学の知識を前提にした例だから、わからないひとは読み飛ばしてほしい。あるとき、わたしは複素解析のゼミを聴講していた。ある日そのゼミは、留数定理という有名な定理に差し掛かった。

 

この定理は便利なもので、われわれが適切に頭をつかって積分路というものを設計すれば、ある種の実関数の積分が計算できる。そしてその積分は、実関数の世界ではなかなか計算しにくい。複素関数へと拡張したからこそ、計算できるのだ。この事実はとてもおもしろいから、たいていの教科書は具体例を計算してみているし、たいていのゼミは計算するだろう。

 

数学科のあなたは、複素解析じたいの美しさに感動していたことだろう。あるいは、複素解析が実解析の役にも立つことに。しかし、わたしが感動したのはそこではなかった。わたしは、実関数の積分を留数定理へと帰着する、そのテクニックに感動したのだ。積分路の設計という、われわれの技術介入に。そしてわたしはこの感動を数学科のひとと分かち合おうとして、当然のごとく怪訝な顔をされた。

 

話を戻そう。わたしは数学をなにかに使いたい。数学的思考を、技術を、発想を。そして、その応用先は数学でなければならない。なぜなら、わたしは物理モデルやシステム制御に興味がないからだ。

 

その点では、既存の問題を解くのも、たしかに悪くはない。狂ったように問題を解き続けていた高校生の頃に戻れるならば、戻ってもよいだろう。だが、最近のわたしの興味はむしろ、まったく未知の問題にどのテクニックで立ち向かうかということのようだ。

 

既存の問題を解くのと、未知の問題に立ち向かうのはどう違うのか。これもまた掘り下げるべきテーマだ。でも今日はもうじゅうぶん書いたから、これは明日以降に回すことにしよう。