アホらしさの錬金術師

世の中は名文であふれかえっている。その一定数はひじょうに高尚で、読む人の心を打ちのめして、考えまでをも変えてしまう。わたしのような賤民はもちろんそのほとんどを理解できないが、それでもたまにすごい筆者がいて、わたしにすらその感動を伝えてくれる。

 

反面、あまりにもアホらしい名文もある。こういった名文には、たいてい、ぜんぜん内容がない。にもかかわらず、わたしはその無のなかに引き込まれ、笑かされる。そんな文章の筆者は、たとえるなら、文章の錬金術師だ。無駄に豊富な教養と、驚嘆すべき文章構成力をもって、筆者は無から名文を生み出しているのだ。

 

さて、ということは、原理的には名文に中身は必要ないということになる。「箸が転んだだけで面白い年頃」とは、人間がもっとも輝いている時期をあらわす言葉だが、錬金術師の手にかかれば、はるかに老いたわれわれすら若返り、箸が転んで笑い出してしまう。

 

もしそんな文章力が手に入るなら、それはとてつもなく便利なものだろう。まず第一に、わたしは日記のテーマに悩まなくなる。テーマがなくても書けるのだから。第二に、第二に……よく考えるとほかには思いつかないが、とにかく、わたしはこの能力が欲しい。そう、あけっぴろげに言えば、わたしは文章がうまくなりたいのである。

 

さて、昨日はボケについて語った。昨日の自分によれば、ボケには差し挟むボケと畳みかけるボケがあるらしい。昨日とっさに思いついて、そう書いたのだ。一日たってもこの考えは変わっていないから、たぶん結構いい分類なのだろう。たいていの思い付きは、書いた先から間違いに気づくものだ。

 

さて、今日は畳みかけるボケについて書こう。箸が転んで笑うような名文は、たいてい、ボケを畳みかけている。まったく中身のないことを好き放題膨らませて、強引に笑いへと持っていく。うまいことを言って笑かすのではない。読者が笑うまでボケ続けるのだ。

 

ひととの会話では、これはそんなに難しくない。笑わせるには、ただ聞き手の肺が決壊するまで、恥と外聞をテンポよく投げ捨て続ければいい。聞き手がすこしでも反応すれば、ごり押すべき部分が見つかったということだ。かりに相手が複数いれば、状況はもっと簡単になる。ひとりが笑えば、あとはみんな笑うのだ。

 

反面、文章をかくときは、目の前に読者はいない。だから、どこまでボケ続ければいいのかも、どちらの方向にボケればいいのかもわからない。わたしがひとりで、興醒めな方向に突き進んでいる可能性もぜんぜんあるのだ。さらにいえば、筆者と読者はサシであって、ほかの読者が笑いやすい雰囲気を作ってくれたりはしない。

 

というわけで、わたしが錬金術師になりたくとも、それは会話のメソッドをそのまま適用するだけではダメそうだ。ではどうするか、それは分からない。だが、くだらない名文をいくつも読んで、ひとつだけ気づいたことがある。どんなにくだらない文章も、終わり方は真面目なのだ。

 

だからわたしも、ありきたりな結論でしめることにしよう。どんなにくだらないことでも、うまくなりたければ、結局は練習あるのみだ。