差し挟むボケ

ネタもないので、最近の日記の感想でも書こうと思う。全国 0 人のわたしのファンの皆さんはもれなく、最近のわたしの文章がギャグによっていることに気づいているだろう。0 人なら、まあそりゃそうだな。ほらそこ、寒いとか言わないの。

 

もちろん、この傾向は意図的である。生身のわたしを知っている人ならわかるだろうが、わたしのことばの 8 割は、ボケだ。そして 8 割が定型文で、残りの 2 割がツッコミである。足して 10 割にならないが、確率とはたぶんそういうものだ。

 

だから、真面目なことばかりやり続けるというのはどうも性に合わない。真面目な文章を期待している方々にはまことに申し訳ないが、この日記は文章の練習だし、ギャグはわたしが書きたいもののひとつなのだ。だから、読者の方々がいかに期待しようとも、わたしがいずれ本性をあらわすのは必然だったのだ。

 

さて、わたし曰く、ボケには二種類ある。差し挟むボケと、畳みかけるボケだ。この分類はいま考えたから、たぶんボケにはもっとあるが、それはいまは置いておこう。

 

最近試していたのは、差し挟むボケだ。文章のところどころで笑いを取り、読み手が飽きずについてこられるようにする。真面目な文ばかり読んでいると眠くなってしまうから、軽く読める文章には、こういうものが必要だ。

 

この手の文章で大事なのは、ボケのリズムだ。むしろリズムさえよければ、ボケの内容はどうだっていい。ボケを差し挟むうえで、書き手は自由だ。明後日の方向にボケても、次の段落で何事もなかったかのように戻ってくればよい。

 

そして、自由はひじょうに扱いづらい。まず第一に、いいボケが思いつかない。だから、気づけばこんなふうに、ぜんぜんボケが出てこない文章になってしまう。ここになんか面白いことを入れる。何を入れればいいのかは、よくわからない。

 

そしてもっと困るのが、ボケが先の展開につながらないことだ。ボケはあくまで付属品にすぎないから、文章の流れは別で用意しなければならない。そうすると、わたしがやるべきことは、ふつうの文章を書いたうえで、改めて大量のボケを振りかけなおすということである。不思議なことだ。普段はボケでしか会話できないくせに、文章では、なんとボケがただの負担になってしまう。

 

さて、このところのボケは、正直うまくいったとは思えない。あんまりおもしろくないし、リズムも悪いし、そもそもの文章の流れがめちゃくちゃだ。それは自覚している。

 

でも、何事も慣れだ。このごろのわたしの全向上心は研究をさしおいて文章に向けられているし、そしていまのわたしは根拠のない自信に満ち溢れているから、わたしはわたしが文章で綺麗にボケられる日がくることを信じている。だから読者諸君、覚悟してほしい。その日まで、わたしはあなたがたを、ヘタクソなボケで不快にさせ続けるつもりだ。