時を超えた熱狂

ものごとをはじめたての頃の熱は、時間をかけるごとにさめてゆく。そして、それが習慣になったころには、熱狂の中ではけっして見えなかったような、無数のちいさな欠点が見えるようになる。だから、おおくの時間をついやした趣味は、かならずしも美しく見えるものではない。

 

熱狂はあいまいだが、欠点は具体的で、ことばとして残る。熱狂がたしかにあったはずだと知っていても熱狂を追体験できるわけではないが、欠点はいつまでもすがたを保ち、明確に思い出される。ちょうど、美しい絵画のすがたはわすれてしまっても、美術館の説明文の誤字だけは覚えているように。

 

わたしにとってのその熱狂のひとつが、数学オリンピックだ。わたしは問題をたのしんで解いたが、同時に、わたしに向いていないおおくの部分を目の当たりにすることになった。いくらやっても関数方程式は闇雲に値を代入する以外の方法がわからないし、同一円周上にある四点には気づかない。だれかが作った問題を解こうとして、なにもわからないまま紙とにらめっこを続けるならば、かわりに研究でもしたほうがよい。

 

さて、そうしてわたしは数学オリンピックからフェードアウトしたが、ふと思い立って、当時の熱狂をまた感じたくなった。たいていの熱狂の余韻は時間とともに薄れるから、ひさしぶりの趣味のたのしさは保証されている。そこで、最近目についていた OnlineMathContest の問題を解いてみることにした。

 

やってみると、現役当時にとりくんでいた問題ほどは難しくなかったから、ひさびさでもどうにか解きすすめられた。そうして問題を倒しながら、わたしは二種類の能力不足を感じることになった。

 

第一の能力不足、それは当時は自在に操っていた定理がぱっと出てこないことだ。たとえば、こんな場合。いくつかの辺の長さといくつかの角度が、図形全体を一通りに定めている。このとき、ほかの辺の長さを求めたければ、どの定理をどこに適用すればいいか?

 

この能力不足は、時間さえかければどうにかなる。原理までわすれているわけではないから、いくらか試行錯誤すればいい。余弦定理すら忘れかけていたわたしは、たしかに衰えをまざまざと見せつけられることになったが、べつに大切ななにかを失ったわけではない。

 

第二の能力不足も、なにかを失ったことに起因しない。その原因は反対に、わたしがなにも得ていないことだ。すなわち、当時よくわからなかった概念は、いまでもかわらず、よくわからない。

 

わからないことに手をつけなければ、わからないのは当たり前だが、それでもわたしはそこに落胆を覚えた。なぜなら、能力不足を解決してくれるのは、往々にして時間だからだ。数年前にわからなかったことが、その数年間ににあったなにかによって、いつのまにかわかるようになっている、ということは、意外とあるのだ。

 

そこでわたしは、ひとつの可能性に思いあたる。数学オリンピックを引退してからの数年で、ものごとを理解するというわたしのメタ能力は確実に上がっている。だから、いま勉強しなおせば、当時使いこなせなかったテクニックをも使いこなせるのではないだろうか。関数方程式になにを代入したらいいかわかり、図から典型的な構図を見つけだすことができるようになるのではないだろうか?

 

いや、やめておこう。べつに真面目に復帰するつもりはないから、わたしと趣味との相性の悪さなど、再認識する必要はない。目にうつるむかしの趣味のすがたをすこしでも美しく保つために、わたしはわたしの可能性を信じたままでいることにしよう。