読書感想文 テッド・チャン『息吹』(①)

タイトルの作品を読んだので、感想文を書く。結末をあらかじめ知ることで読書体験が損なわれる種類の作品ではないから、ネタバレの心配はしなくてよいような気もするが、とりあえず機械的に、空行の下から始めることにする。なお、一部短編の感想は明日以降にまわす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最初の短編を読んだのはもうだいぶ前になるから、『偽りのない事実、偽りのない気持ち』で語られるように、わたしの記憶は、わたしの知らないうちにおおきく改竄されているかもしれない。だから、わたしが感想を書くはずの小説は、実際に書かれた小説とは異なるものかもしれないし、わたしが感想だと思っているものは、当時のわたしの感想とも限らない。だが、この日記はあくまで、客観的事実ではなく、わたしにとっての真実を書く場であるから、それで構わないだろう。わたしにとっての真実は、べつに誰かを傷つけるたぐいのものにはならないのだ。

 

最初の短編『商人と錬金術師の門』――もっともわたしの記憶が改竄されている可能性のおおきいもの――は、タイムスリップを扱っている。タイム・パラドックスを発生させないために世界に決定性を課すのは一般的だが、本作では作者は、時間軸を空間軸と同種の、向きのないものとして扱うことで、決定性を実現しているように思える。すなわち、わたしのすぐ右隣の状況とすぐ左隣の状況が、両方ともわたしに影響を及ぼすように、わたしの直前の状況と直後の状況が、両方ともわたしの現在を規定するのだ。

 

決定的な世界の宿命論的な雰囲気は、語りの中のイスラーム世界の、神そのものにいっさい疑う余地のない雰囲気によく合っている。神の存在をみなが知っている世界を描いたのもうひとつの作品『オムファロス』では、われわれの世界とは対照的に、神は科学の目によって存在を保証される。われわれの科学が、神を存在してもしなくてもいいものに近づけるかわりに、彼らの科学は、創世という仕事の偉大さをたえず補強し続けるのだ。

 

この世界はわれわれのものとは異なるが、同時に、まったくありうべき世界にも思える。じっさいのところ、彼らの世界はおそらく、科学が神を観測できることを除いて、われわれの世界と大差ないのだ。神を観測するのはあくまで科学の洗練された目であって、ふつうの人に見えるかたちで神がそこらを歩いているわけではないから、何も知らなければ、神の証拠もそうは見えないはずなのだ。

 

わたしがこの、ありえたかもしれない世界に惹かれるのは、わたしが科学的合理性を保ったまま、信仰といういとなみを体感できるからかもしれない。わたしは具体的な信仰の薄い国に生まれ、神の存在を証明しない科学といういとなみに加担している。だから、わたしは信仰といういとなみを、信仰と論理性とを両立したすがたを、いまいちよくわからずにいた。作中の世界は、現実世界の信仰こそ説明しないが、それでも信仰といういとなみのすがたについて、わたしに一定の実感をもたらしてくれたように思う。