わからぬまま、とりあえず書いてみること

わたしがなにかを考えるとき、わたしはことばに加えて、いろいろなイメージを扱う。たとえば、家の模様替えをするとき、わたしたちの頭のなかは、家具の配置の図形的なイメージや、いろいろな箇所の寸法の足し算引き算で占められている。わたしが将来を憂うとき、わたしが参照するのはいまのわたしの感情であって、未来に書かれるはずの自伝のすがたではない。

 

だが、わたしがなにかを書きあらわすとき、わたしが使える道具はことばだけだ。だからわたしは、無理やりにでも、イメージをことばに翻訳しなければならない。そして悪いことに、イメージをよくあらわすことばは、つねに見つかるとは限らない。

 

イメージをうまくことばにできないとき、わたしは悶々としながらも、諦める。簡単なことばにできるはずだとの思いを胸にしまって、わたしは正確だが複雑怪奇な論理を、幾重にもごちゃごちゃに張り巡らせる。そうしてできた長文にわたしは満足しないが、それ以外に選択肢はないのだ。

 

しかし、ある程度の校正をへた文章には、そんなごちゃごちゃは残らない。誰かの読む文章には、ごちゃごちゃはあってはならないから。ごちゃごちゃは誰にも読めないから、解消するか、削除せねばならないのだ。

 

ごちゃごちゃを解消するのは、しばしばほかの人だったり、あるいはじゅうぶんな時間がたって、当時の論理をわすれてしまった自分だったりする。考えれば、これはすごいことだ。ほかの人や未来の自分は、書いたときの自分以外の誰にも読めないはずの複雑怪奇な論理を読み解き、あろうことかそれを解きほぐしているのだ。

 

過去に生み出してしまったごちゃごちゃと、それを解消した経験を思い返せば、わたしはおそらく、ごちゃごちゃをイメージに戻さずに解消しているように思える。わたしは複雑な論理を複雑なまま扱い、論理をくみたてる上で不必要なところを、ばっさりと切り捨てる。書いた当時のわたしの気持ちなど、思い返すこともなく。

 

かくして、誰にも読めないはずのごちゃごちゃに、簡潔さという命がやどる。命がやどったのは、もちろん、誰かがごちゃごちゃを解消したからだ。しかし、そもそも元となるごちゃごちゃがなければ、それが解消されることなどなく、当初のイメージは誰にも伝わらぬまま、ただ過去のわたしの中で朽ち果てていたはずなのだ。

 

だから、ことばにするのは重要なプロセスだ。たとえよいことばがまったく見つからず、誰にも読めない怪文書が生み出されてしまったとしても。ことばにすることによって、いま現在、何の理解も進まなかったとしても。

 

いまのわたしにはうまく書けなくても、きっと、時間がすべてを解決してくれる。