素晴らしきパズル人生

わたしの半生は、つねにパズルとともにあった。数学やプログラミングの問題を解く趣味が嵩じて、気づけば博士課程にまで進学していた。そうしていまも、研究の社会的な意義など真面目に考えることもなく、ただ数学パズルを解いて遊んでいる。

 

ペンシルパズルが流れてくると、わたしはつい解き始めてしまう。わたしは将棋はわからないが、詰将棋は好きだ。もしわたしに、狙ったところにボールを投げられるだけのコントロールがあれば、きっとピッチングの組立てなんかも好きだっただろう。このように、わたしがおもしろいと感じるものは、多かれ少なかれパズル的な性質を帯びているように思う。

 

文章を書くのもパズルの一種だ。書くためのテーマさえあれば、解くべき課題はあるていど、はっきりしている。文章には型があるから、文章を書くとは、型の各部分にもっともよくあてはまる文を、ひとつずつ埋めていく作業だ。

 

さて、これまで無批判にパズルということばを使ってきたが、実際のところ、なにがパズルをパズルたらしめるのだろうか。わたしはこれを、局所性と、解くことそのものへの集中のふたつだと思う。

 

局所性とは、考えの軸を細かい部分の整合性におくことだ。パズルでは、はじめから森を見ることはない。そのかわりに、木の一本一本をつぶさに観察することによって、森全体のシルエットを浮かび上がらせる。

 

解くことそのものへの集中とは、ことば通り、パズルを解きあげることじたいを目標に据えることだ。パズルが楽しいのは、それを初めて解いたときであって、解いた先の世界の広がりを夢見ているときではない。

 

世の中には、これらの片方を欠いたものがたくさんある。たとえば研究は、ほんとうのことを言えば、解くことそのものに集中すべきではないとされる。逆に未来予測などは、未来の姿を描き出すことそのものに意味があるが、局所だけを見た未来のかたちはいびつで、とても予測と呼べるものではない。

 

だがわたしはやはりパズルが好きだ。だから、パズルだけを解いて生きていくつもりだ。研究や文章を書くことにわたしがパズル性を見出せたように、世の中の多くのことは、多かれ少なかれパズル的な側面をもつと信じている。