カオス防衛活動

専門家とは、とかく文句の多い種族である。

 

「専門家も、専門外のことについては素人である」――このことばは、何にでも口をはさみがちな専門家たちをいましめることばだ。じっさい、ツイッターなど開いてみれば、政治や初等教育に物申したい学者たちが、日陰の石の裏のダンゴムシがごとくひしめいている。もちろんかれらのほとんどにとって、政治や教育は専門ではない。

 

専門家とは、みずから考えたあたらしい概念をみなに伝える仕事だから、かれらは必然的に文章が達者だ。結果として、かれらの素人意見は一定の説得力をもち、一定の注目をあびる。注目されればひとは自信を深め、より頻繁に素人意見を書きこむことになる。書きこむことがなければ、どうでもいいこと――掛算の順序など――をさも巨大な問題なように仕立て上げる。さすればもはや、この負のスパイラルはだれにも止められまい。

 

さて、論文の参考文献の書きかたも、このどうでもいいことに該当するように思える。世の中には「参考文献の書き方」といった資料があふれているが、ほんらい参考文献リストなど、引用している資料がきちんと特定できればよいのだ。そしてグーグル検索のあるこのご時世、よほどのことがないかぎり、著者名とタイトルから資料が特定できないなんてことはありえない。

 

にもかかわらず、参考文献の書きかたにうるさいひとは、ほんとうにうるさい。うるさいひとにとやかく言われるのは嫌だから、わたしも色々と調べながらやっている。そして驚くべきことに、調べてわかるのは、どうやら決まった書きかたなどなく、論文内で書式が統一されていればいいらしい、ということだ。

 

どうでもいいことにも口をはさみたがる専門家たちが、ただしい書き方を定めようとしないとは思えないから、たぶん、定めようと思っても定められなかったのだろう。「歴史的にいくつもの流派があり、統一しようと思ったころにはもはや手を付けられる状態ではなかった」――推測だが、さしずめこんなところかしら。

 

いちいち定められても居心地がわるいから、わたしはこの混沌を歓迎する。やる気のあるだれかが、なんでも定めたがる専門家たちを巻き込んで、引用の書きかたなんてものを統一しようという気を起こさないことを願う。だが、これは杞憂かもしれない。政治や教育とちがって、こんなどうでもいいことに、ほとんどのひとは注目しないだろうからだ。