非ネイティブ的数式処理法

広く信じられている考え方によれば、思考はことばを介してなされる。ことばは、人と人の間での通信手段であるだけでなく、わたしの頭の中で、思考と思考とをつなぎ合わせるためのインフラストラクチュアでもある、というわけだ。

 

ふだんの会話や執筆活動において、わたしの思考を回すための言語は、他人と情報を交わし合うための言語と同一だろう。わたしが表現したいことを表現しようとするとき、わたしは多かれ少なかれ、自分が考えていることばをそのまま出力する。適切なことばが出てこないことはたまにはあるにせよ、ほとんどの場合、わたしはほとんど無意識にただしい言葉を発しているのだ。

 

だが数学において、ふたつの言語は異なるように思う。数学の教科書を読むとき、わたしはもちろん、数学を記述するための言語を読む。だがそのままでは、とうてい理解したとは呼べないとわたしは知っている。

 

わたしにとって、数学の理解とは翻訳だ。本の上には、数学を書くための言語がある。わたしはそれを解読し、わたしが数学を考えるための言語に翻訳する。こうしてはじめて、わたしは本の上の数学を、わたしが考えるために使うことができる。

 

同様に、わたしがわたしの考える言語で考えた数学は、そのままではとても数学的とは呼べない。論文の証明を書くなら、わたしは考えたことばを、数学を書くための言語に翻訳しなければならない。

 

だが、数学に二種類の言語を使い分けるのは、どうやら万人がやっていることでもないらしい。わたしは何人かにこの話をしたが、返答は思ったほど芳しくなかった。わたしの解釈がただしければ、かれらは書かれた数式を、書かれたままのことばで理解しているのだ。

 

かれら数学語のネイティブは、書かれた数学を即座に理解するし、考えた数学を即座に定理にできる。反面わたしたちノンネイティブは、読むのにも書くのにもいちいち翻訳を必要とする。おそらくわたしは、かれらと比べて、ひとつの大きなディスアドバンテージを背負っているのだろう。

 

だが、不平を言ってもはじまらない。数学を書くための言語は、たしかに私が数学を考えることばに近いかたちでは発展を遂げてこなかったが、だからといって数学を書くための言語を、わたしが新しく創りだせるわけでもないのだ。わたしは、わたしの考える言語を、わたしの中で生かしていくしかない。やせがまんに聞こえるかもしれないが、わたしの考える言語には、われわれの書く言語には宿りえない思考が宿りうると信じている。