キメラの成長日記

われわれが文章を書くとき、われわれは各断片を、これまでに書いた内容と矛盾しないように書く。おなじように、各断片は、これから書かれる予定の内容へと向かえるように書かれる。結果として、文章は、おのおのの部分が複雑に依存しあった構造をとる。

 

この日記のようなみじかい文章なら、わたしは、断片と断片の関係をかんぺきに掌握できる。そうでなければ、文章ははるかにぼーっとした、なにを伝えたいのかよくわからないものになってしまうだろう。

 

だが、長文となると話はべつだ。数十ページの論文の文章がどういう構造をとっていたのか、わたしは書いたさきから忘れていく。だから、一部分を修正したとき、その修正がどの部分にどんな影響をおよぼすのか、わたしはときに把握しきれない。

 

文章の構造をこわさずに修正するための、いちばん愚直な策はこうだ。ぜんぶ忘れたあと、きれいな頭で、最初から読み直せばよい。もちろんそうすればおかしな点には気づくだろうが、この策を毎回、ほんとうに実行するひとなどいない。忘れるのにも、全部読みなおすのにも、時間がかかりすぎるからだ。

 

かわりにわたしは、一箇所を修正したら、そのまわりだけを見て破綻していないかどうかをたしかめる。修正のまわりの整合性で、文章全体の整合性を近似してしまおう、というわけである。この近似はおおかたの場合、ただしい。文は、ちかくの論理構造から、文章全体からよりもはるかにおおきな影響を受けるからだ。

 

だが、そうした修正をくりかえして、いつのまにか、わたしの文章は整合性を失ってはいないだろうか?

 

わたしは、わたしの編集している文章が、幾度ものつぎはぎによって生まれた、おそろしくいびつなキメラだと知っている。だから、それがみずからの身体を制御しきれているのか、いつでも不安に思っている。しかし、そいつのきたない身体は経験上、わたしがおもったほどには崩壊していない。

 

だから、そのキメラの怪物が平衡を失ってしまわないどうかを、わたしはそれほど意識しなくてもいいのかもしれない。最初の文章だって忘れながら書いているのだから、よくよく考えれば、もともとこの怪物は、きれいな体で生まれてきてなどいないのだ。