これはメタな日記です。

今日はすこし忙しいので、日記は軽く済ますことにする。

 

忙しかったり書くことが思いつかなかったりしたとき、わたしはこれまで「日記はおやすみにする」と書き出していた。しかしもちろん、この書き出しは厳密にはウソである。日記をおやすみにすると日記に書いた時点で、もはや日記はおやすみではないのだから。

 

さらに言えば、わたしは「日記はおやすみにする」だけで日記を終わらせたこともない。だから、実質的な意味でも、日記はおやすみにはなっていない。これまでのわたしにとって、日記をおやすみにするとはむしろ、おやすみにすること自体を題材するという、執筆上の宣言であった。

 

さて、こんな中身のないことを書くのは、もちろん苦し紛れである。何かを考える気力と時間がないから、安直なメタに走っているのだ。

 

中身のある文章と違って、メタを書くのはきわめて簡単だ。中身のあることを書くには、自分の書いている論理がほんとうに自分が思っていることに合っているのか、たえず確認しつづける必要がある。反面、メタならば、わたしはわたしの論理に機械的に反応しつづけるだけでよい。

 

メタを書くための常套手段は、書いていることを無理やりに俯瞰することだ。たとえば物語の登場人物に、その物語じたいについて語らせること。物語の登場人物は、みずからを現実の存在だと考えているから、メタな語りをほんとうに成立させるためには、それなりの場面設定が必要だ。だが、書き手が安直なメタに走るときには、そんなめんどうな障壁はいっさいかえりみられない。ただとつぜんに、登場人物が直接読者に語りかけはじめるのである。

 

俯瞰は人をいい気にさせる。無理な俯瞰に内容の理解はまったく必要ないが、それでも俯瞰といういとなみは、眺めた内容を理解し、支配した気にさせてくれるのだ。だから書き手の自己満足という点で、メタは偉大である。理解が必要ないぶん、メタはお手軽だ。

 

さて、ふたたびメタに走れば、今日のわたしは、わたしが俯瞰するということを俯瞰し、メタといういとなみに対するメタを書いた。この俯瞰をさらに俯瞰することもできるし、俯瞰の連鎖が無限に続くことをまた俯瞰することももちろん可能だ。

 

だがその議論はありふれているから、これくらいで終わりにしておこう。わたしはメタを書くために日記をはじめたわけではないし、いまもそうするつもりはない。でもこれはメタにかんする文章だから、メタな記述で締めてもよいだろう。安直なメタといいつつ、じつのところこの文章は、それなりに真面目に考えて書かれているのだ。