読書感想文 テッド・チャン『息吹』(③)

一昨日と昨日のつづき。今日でおしまいのつもりだ。例によって、空行の下から始める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『予期される未来』は、自由意志の非存在が、目に見えるかたちでたしかめられる世界を扱っている。この世界は完全に決定的だ。

 

世界は決定的だという考えじたいは古典的で、すでに使い古されているが、多くの議論は、結果的に生じるタイム・パラドックスを解消できない。つまり、一定数の人間はあまのじゃくで、未来を知ることでその逆をやろうとする。だから、未来は決まっているのはおかしい、と。

 

本作は、この世界でひとが何をするかという創造的な観点からではなく、どうすればこの世界は矛盾しないかという科学的な観点から書かれているように見える。本作は、この点について、ひとつの無矛盾な世界のすがたを提示している。すなわち、あまのじゃくはみな、世界が決定的だと知ったらやる気をなくす。

 

そのような世界に希望は希薄だから、本作の雰囲気は暗く、硬い。反面、『大いなる沈黙』は、みずからの種の滅亡という暗い未来を知りながら、それでも世界を愛してけなげに生きる生物のすがたを描いている。

 

この世界のオウムたちのことばは、残念ながらおそらく、知的生命との邂逅を夢見る人類の、望遠鏡という機械の示す波形には加わらないだろう。望遠鏡アレシボは、地球を見るものではないから。『デイシー式全自動ナニー』の男の子は逆に、機械をつうじてのみひととコミュニケートする。そのため、彼との直接のコミュニケートをめざす人々は、彼の知性に気づけなかった。人類が、オウムの声に気づけなかったのとおなじように。

 

どちらの作品も、コミュニケーションは、伝える内容だけではなく、伝える手段が必要だと示している。表題作『息吹』の世界では、主人公はほかの文明に原理的にアクセスできない。だから主人公は、書き残すという手段をとった。

 

オウムとおなじように、この世界の住人は終わりを知っている。そしてこの世界の終わりは、ひじょうにわかりやすい単一のタイムリミットだ。気圧差こそが、この世界のすべての住人を含めた動力源で、滅びるときはそれがなくなるときだ。わたしには、主人公たちが機械の身体をもつことをはじめとして、この世界の設定はすべて、この終わりのわかりやすさを際立たせるためのギミックに思える。この世界で、ひとはなかなか死なない。そして、内戦が起きたり、異常気象で身体が溶けたり、宇宙人が攻めてきたり、そういった原因は心配されていない。

 

終わりがわかりやすいからこそ、住人は終わりに集中し、終わりを超えて生き残ろうとする。しかし主人公の見立てによれば、かりに終わりの先になにかがあるとしても、それはまた別の終わりだ。だがそれでも、われわれが希望を見出せる先はそれしかないだろう。