読書感想文 テッド・チャン『息吹』(②)

ひきつづき、読書感想文を書く。昨日と同じく、空行の下からはじめる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル』では、人工知能が発展し、自我と呼べるほどの高度な意識をもつ世界を扱っている。主人公たちは、ディジエントとよばれる人工知能と、対等とよべる個人的関係を築きあげている。

 

高度な意識をもつ人工知能はありふれた題材だし、じっさいにいまの科学の一部は、その夢をめざしている。だが、本作でもっとも進んだ知能をもつディジエントは、黎明期につくられたディジエントだ。そのあとにもいくつかのディジエントがつくられるが、けっして知能面で後発に追いつかれてはいない。

 

本作で人工知能を発達させるのは、洗練されたフレームワークではなく、人間とのかかわりだ。すなわち、どのフレームワークにも潜在的な可能性があるが、それをただしい方向へと導いてやるのは人間のしごとだ、というわけだ。わたしたちは、人工知能になにかを教えることを「学習させる」と呼ぶが、この世界では、「育てる」と呼んだ方がしっくりくるだろう。この世界で語られるのは、人間の親とディジエントの子供がおおくの障害を乗り越えながら育っていく、言ってしまえばふつうの成長物語である。

 

そこでふと、わたしはひとつの技術に思い至った。Waifu Labs というウェブ・アプリケーションで、好みの二次元美少女をいくつかのなかから選択することを繰り返して、そのひとの理想の美少女絵を生成する、というものだ。

 

世の中には、美少女絵を自動生成するソフトウェアがたくさんある。そしてそのいくつかは、少女たちを、とうていひとりひとりの相手などできないほどたくさん生成する。そうして、もし自作ゲームの登場人物や、Youtubeアバターとして使いたければ、わたしたちは、そのなかから気に入った少女を探すことになる。

 

好みの少女がそうしてみつかるかどうかはさておき (猿がシェイクスピアを執筆する確率よりはだいぶ高いだろう)、そうして見つけた少女を、わたしがほんとうに愛せるのかは別の問題だ。機械のランダムネスからのみ生まれ、生成された瞬間に忘れ去られた大量の姉妹をもつ少女のひとりに、わたしは姉妹たちとおなじ運命をたどらせはしないだろうか?

 

反面 Waifu Labs では、少女はわたしたちの選択から生まれる。たかが数回のクリックを、本作中の十年以上にわたる「育児」と一緒にしてはもちろんいけないだろうが、だがそのクリック作業は、まちがいなく愛の根拠となる。そうして「育てた」少女を、わたしはいまも twitter のアイコンに使用している。

 

さて、大量生成の少女を愛せない根拠のひとつは、彼女の選ばれなかった姉妹たちが、彼女のすがたの裏につねにちらつくからだ。『不安は自由のめまい』の世界では、主人公たちは姉妹たちをちらつかせるだけではなく、じっさいに選んだ未来を観測できる。

 

わたしたちはしばしば、過去の選択を思いだし、別の選択をしていた未来を想像する。その未来はうらやましいこともあれば、恐ろしいこともある。では、それをじっさいに見ることができれば、わたしはわたしへの羨望を断ち切ったり、わたしへの恐怖を強めてこの選択を正当化したりできるだろうか? 逆に、かえって羨望を強めたり、判断の確信を揺らがしたりしてしまうだろうか?

 

本作中のひとびとは、じっさいにほかの未来を観測し、上に述べたようなさまざまな反応をみせる。一般論だが、技術はひとを幸福にも、不幸にもするのだ。本作では、この技術で不幸になったひとたちの集会が描かれている反面、最後には、主人公はこの技術でひとを幸福にしようと試みる。

 

この本のほかの短編にくらべて、本作の伝えるメッセージは明確だ。すなわち、ありうべきほかの未来の自分は、この世界線の自分の判断を無価値にするものではない。本作の技術は、いまの自分という明確な存在を、ランダムネスの霧の中にまぎれさせるものではない。自分という存在を、すこしだけ統計学的に、客観的に扱いやすくするだけだ。

 

本作の登場人物は、みなそれぞれに、後味の悪い過去を抱えている。にもかかわらず、物語はやさしい終わり方をしている。物語をやさしくさせるのは、登場人物たちの反省だ。別の世界線を知るのはたしかに劇薬だが、知っても知らなくても、反省といういとなみは、この世界でのわたしを確実に前に進めてくれるだろう。