分からなくてもよいこと

学術研究の目的にはいろいろあるが、おそらくいちばん一般的なのは、人類の知識を拡げることだろう。研究者とは、まだ見ぬ景色のためにその身を捧げる知識の探究者である、と。

 

ステレオタイプな研究者観によれば、研究者は知識の探究にのめり込むあまり、そのほかのあらゆることをおろそかにする傾向にある。わたしたちは自戒を込めてこう言う――成果を発表することは、その成果を出すことと同じくらい重要なのだ、と。

 

戒めの裏には、そう戒めるべき逆説的な現実がある。そしてそれは今回の場合、ほとんどの研究者は成果を発表することではなく、成果を出すことこそがもっとも大事だと考えている、という現実だ。そうでなければ、そもそもこう戒められることはないのだから。

 

かくして一般的な認識では、論文とは厳密には成果ではない。論文とは、ただ成果を読めるかたちに整形したものにすぎないのだ。

 

しかしながら、わたしにとって論文を書く作業は、知識の探究そのものであるように思う。示したい定理を前にしてわたしはエディタに向かい、証明を書き切ることで知識を新たにする。アルゴリズムの細部の挙動を知るため、わたしは実際に疑似コードを書いてみる。かくしてわたしにとって研究とは、論文を書くことだ。

 

創ったものを書くという一般的な順に比べ、書きながら創っていくわたしのメソッドでは、わたしたちはなんどもなんども書き直すことになる。書いているうちに新たな理解が芽生え、そうしてその理解が文のほころびをあらわにする。ほころびを直すと別のほころびが生じ、そのほころびがまた新たな理解を生む。

 

最初のうち、ほころびは純粋に喜ばしい理解をくれる。だからわたしは、研究が進んだ気でいられる。だが終盤にもなると、ほころびがくれる理解は、表記ゆれや未定義といった、単なる形式的な不整合の指摘にすぎなくなる。

 

形式的な不整合がくれるのも、確かに理解と呼べるなにかだ。不整合を解消する新たな定義は、議論をより細部まで明るく照らしてくれる。だがわたしにとって、その光に喜びはない。研究という重箱の隅をつつくだけの理解を、私はとくに欲していないのだ。

 

理解は理解にちがいないと言って、論文を直し続ける作業を正当化することはできる。だが私はこう感じる。この理解はあくまで発表のテクニックにかんするもので、じっさいに知識を探究しているわけではない、と。

 

もちろんわたしは、成果自体とその発表をあまり区別していない。だがそのわたしでも、そこに差異を感じることはあるのだ。そしてその意味でわたしもまた、発表より成果自体を重要視するステレオタイプの研究者の一人なのかもしれない。