Storyteller's Strangeness

多くの研究者にとって、研究の目的は研究それ自体だ。すくなくとも私は、金のために研究するわけでもなければ、人のために研究するわけでもない。目的はあくまで、私個人の喜びだ。

 

そして、世間もそれを許してくれる……のであれば、もう私から語るべきことはなにひとつない。世の中はけっして、私の理想的な家族などではないから、私の喜ぶ顔を見るだけで満足してくれたりはしない。世の中は私に別の要求をするし、私は応えなければならない。だからこの文章は、もう少しだけ続くことになる。

 

世の中は、研究者に研究内容を要請するために、さまざまなシステムを使う。例えば政府は、今後の発展を望む分野に重点的に研究費を配分する。研究室のボスは、しばしば自分のテーマに学生を取り組ませる。企業は、新製品をかたちづくるための技術に投資する。

 

だがこと理論系において、もっとも顕著なシステムとは、学会の査読だろう。学会は、良いと思った論文を掲載して悪いと思った論文を掲載しないことによって、研究者に研究の方向性を示す。論文を多くの人に読んでほしければ、あるいは単純に職のための実績が欲しければ、通る論文を書くしかない。言い換えればそれは、学会が書いてほしいと考える論文だ。

 

我々は論文を通したい。だから我々は、査読者へ向けて論文を書く。重要なのは初学者が読みやすいことでも、発見の喜びを読者と分かち合うことでもない。査読者がアクセプトと言うかどうかだ。

 

そして実のところ、我々はしばしば、研究を論文にまとめ上げる段階で初めて、査読者を意識する。

 

我々は基本的に、我々自身の喜びのために研究する。私はほんとうは、私が楽しければそれでいいのだ。しかし、査読者は他人だ。だから研究を論文のかたちにするとき、我々は査読者が納得するようなストーリーをでっちあげる。その付け焼刃のストーリーに、我々自身の喜びは宿らないにもかかわらず。

 

そして私は、当たり前だがなかなか顧みられない事実に行き当たる。すなわち、査読者のほうだって、ストーリーはでっちあげだと知っているはずなのだ。査読者だって、論文は書くのだから。

 

査読とは奇妙なものだ。査読者はストーリーなど茶番だと知っているはずなのに、著者はそれでもなお茶番で勝負する。その奇妙さを突き詰めた先には、査読者という存在に関するひとつの疑問が浮かび上がってくる。果たして、論文をストーリーの良し悪しで評価する態度は、自分の論文でストーリーをでっちあげる態度と両立するのだろうか?

 

いまのところ、私には分からない。実態はおそらく、ストーリーも評価するし中身も評価する、という至極あいまいなところにあるのだろう。

 

だがもし、私が査読者としてこれらを両立できるのであれば、理由はきっと、こうなるだろう。研究自体の喜びに比べればまったく些細なものだが、納得のいくストーリーを書くことにもまた、ささやかな成功の喜びがあるのだ。