異言語は香らない

世の中を流れることばの多くは、さまざまな解釈ができる。たとえば、詩や小説は、読んだ人のこころに触れてはじめてかたちをなすような比喩表現であふれかえっている。あるていど厳密であるべき法律の条文でさえ、過去の判例にあわせて、その意味するところをたえず変えつづける。

 

数学を書くための言語とちがって、自然言語はあいまいで、多義的だ。世の中は数学ではないのだから、あたりまえだ。いったい誰が、苦労や幸福といった概念を、数学的な厳密さをもって定義できるだろうか?

 

しかし数学以外のシチュエーションでも、ときおり、数学的な厳密さが必要になることがある。さいたる例は、トレーディング・カードゲームのテキストだろう。

 

カードゲームにおいて、プレイヤーはルールで許されるあらゆることができ、ルールで許されないいっさいのことができない。ルールに穴がある場合をのぞいて、グレーゾーンの行為は存在しない。否、むしろ順序は逆で、グレーゾーンをつくらないために、ルールは厳密でなければならない。だからルールをあらわすテキストは、完璧に厳密に書かれている。

 

さて、ここでカードの実物を見てみよう。カードには、ルールテキストが書かれている。カード内の何か所かには記号がかかれており、ルールを知っていれば、それがゲーム内で意味するところがわかる。だがときおりそれ以上の面積が、イラストやフレーバー・テキストなどの、ゲームすすめるのに影響しないフレーバーで占められている。

 

フレーバーは料理の盛り付けに似ている。たしかにカードの強さにはかかわらないが、だからといって本当にどうでもよいというわけではない。われわれはカードを並べながら、フレーバーを通じて背景設定を楽しんでいる。

 

論文のイントロも似たようなものだ。イントロは定理の中身に影響をあたえないが、定理の意味に彩りを与える。イントロにあらわれることばの意味など、だれにも定義できやしない。そんな非厳密なことばが数学の論文にあらわれられるのは、ひとえに証明をすすめるのに影響しないからだ。

 

さて、フレーバーは本来楽しいものなのにもかかわらず、わたしは論文のイントロをあまり楽しめない。それどころか、イントロが長すぎると文句をたれる始末だ。理由のひとつはもちろん、英語の長文だからだ。

 

母語で長い文章を読む気はしないから、わたしはイントロを読む代わりに、必要な定義だけを拾い読みする。いいかえればわたしは、フレーバーの中に埋もれたルール・テキストだけを抽出している。そしてフレーバーは読まれず、それが醸し出す雰囲気は単に失われるのだ。

 

ときおり、わたしは別の世界線を夢想する。イントロがわたしの母語で書かれていて、適当に流し読みするだけで分かってしまう世界線を。その世界ならわたしは、わたしがカードゲームの背景世界にもつような興味を、過去の研究の流れにもつことができただろうか?

 

こたえはたぶん、イエスだ。経験上、たいていのストーリーは興味深いから。だが、英語話者でないことなど、いまさら悔いても仕方ないし、悔いる気もない。結局のところ、英語に労力をついやさなくても、世の中には他にもおもしろいものがたくさんあるのだ。