イデオロギーごっこ

自発的にか現代の教育の影響かは定かではないが、とにかく、私は一切のイデオロギーに対して相対的であろうと考えてきた。何事も信じまいと誓った。一切のイデオロギーに染まるべきでないというイデオロギーに染まり、その是非に頭を悩ませてきた。

 

イデオロギーに染まるのは敗北だが、それはまた甘美でもある。信じることは強力な心の支えだからだ。ある日突然イデオロギー的発言をしたかと思えば、以後それしか言わなくなってしまう人を、私は一人ならず観測してきた。自分がそうなるのは怖いが、同時にそれは楽だろう、とも思う。

 

私のような人のために、世の中には、イデオロギーごっこを安全に楽しめる聖域が用意されている。例えばプロ野球。選手がどのように振り分けられるかを考えれば、贔屓球団の選択に根拠などないことが分かるだろう。にもかかわらず、私は阪神ファンだ。巨人だけには勝たねばならぬというメチャクチャなイデオロギーを、それをメチャクチャだと認識したうえで受け入れている。

 

きのこかたけのこか。町田市の領有権は。イデオロギーの真似事にすぎないと誰もが知っているからこそ、私はそれを楽しめる。イデオロギーに染まるなというイデオロギーの例外として処理できるからだ。

 

ところで世の中には、染まるべきとされるイデオロギーも存在する。民主主義、平和主義、あるいは反差別主義。基礎研究の価値、年長者への敬意。もちろん、それらのイデオロギーを把握することはできる。その言葉を使って話すこともできる。何がそのイデオロギーに反するかを判定し、発言を自制することもできる。だがしかし、あくまで相対的であることをやめる気はない――内面化するのは危険だと、私のイデオロギーが言っている。

 

イデオロギーを内面化した他人と、それを内面化せずに語り合うのは骨の折れる作業だ。だからどうにかして、これらを安全に内面化することはできないだろうか? プロ野球と同じように処理できないだろうか?

 

そうだ、極端な世界を考えるのだ。そのイデオロギー原理主義的に適用された SF の世界を考えよう。ふたつのユートピアの、もしくはふたつのディストピアのどちらが良いかを議論しよう。イデオロギーが現実を反映してさえいなければ、おままごとで遊んでいても構わないだろう。