音を止め、穴を掘る

研究とはなにかとはむずかしい問いだが、わたしにとって、研究とは問題を解くことだ。わたしの理想の研究者とは、パズルを解いて遊んでいればなぜか給料と社会的地位が降ってくる、そんなふしぎな職業である。

 

むろん現実はそう簡単ではない。もっとも、パズルを解きたいだけのひとに一緒に降りかかってくる、さまざまな雑務や責任のことを言っているわけではない。問題を解こうにも、研究者というのは軒並みみな賢いから、だれかがさじを投げた問題はたいてい難しいのだ。だから、問題はたいてい、解けない。

 

じつは、そういうときに使えるとっておきの裏ワザがある。問題を、自分であたらしく作ってしまえばよいのだ。新しくつくった問題は誰も考えたことがないのだから、もしかすると簡単かもしれない。すくなくとも、だれかが解けなかった問題よりは。よい問題を定義するなら、それはわたしにギリギリ解けるくらいに簡単な問題のことだろう。

 

さて、だからわたしは、解かれた問題に興味はない。自分が作って解きおわった問題にも、やっぱり興味はない。解いた問題は、それ以上解かれることはないからだ。言い換えれば研究とは、解かれていない問題という資源の採掘競争である。

 

だが、当の競争相手にとっては、かならずしもそうではないようだ。

 

 

研究の喜びは、理解すること。ものすごい数の先人たちが、ものすごい時間をかけて考えた、ものすごい数の定理がこの世にはある。わたしは、そんな人類の英知の結晶を眺めるのが好き。だってそうすれば、わたしはその定理をわたしのものにできる。これが宝石だったら、借りてもいつか返さなきゃいけないけど、知識なら一生わたしのなかに残って、わたしの感性をすばらしく豊かにしてくれる。

 

そうやって、いろいろな知識を借りては眺めているうちに、わたしはふと気づくの。この定理とこの定理、じつはつながってるんじゃないかしら、って。そうしたらわたしは、昔に仲良くなった論文とか大学の教科書とかを引っ張り出してきて、わたしの直感がほんとうかどうか確かめてみるの。ほとんどの場合、わたしはぜんぜんまちがってるか、あるいは誰かがすでに同じことを考えていて、何年も前に論文になってる。でもごくたまに、わたしがただしくて、しかもだれもそれに気づいていない、っていうことがあるの。

 

そうしたら、人類はあたらしい視点を手に入れたってことになる。で、わたしがその最初のひとり。だからわたしは得意になって、そのあたらしい視点で、もっといろいろなものを見てみるの。そうすると、世界がぱぁっとひらけたようになって、これまでよくわからなかった知識たちがいっせいに歌い出すの。その歌を聞いて、わたしはこう思うの。なんだ、みんなはじめから一緒だったんだ、って。

 

この歌を聞くのが、研究の喜び。もっとも、わたしが聞いたことがあるのは、たぶんそこらへんの虫たちの歌くらいで、偉大な研究者たちの耳に届くオーケストラの音色とは、とてもくらべものにはならない。だからわたしの最近の悩みは、わたしが野原に歌を探すよりも、先人たちのオーケストラを聞きにいくほうが楽しいんじゃないか、ってこと。教科書を読む方が、わたしが研究するより何倍も簡単に、何倍もすばらしい知識に触れられるんだから。

 

 

さて、わたしの脳内の少女と、わたしは分かり合えないだろう。先ほども書いたように、わたしは解かれた問題に興味はないからだ。そしてわたしの理解では、理論を建てるのはこの少女のような研究者だ。すなわち、わたしは理論に興味がないということになる。

 

先人を、音楽を奏でてくれる友達だと思うか、それともわたしより先に資源を掘り当てた競争相手の冒険家だと思うか。少女ならこう言うだろう。「せっかく美しい歌を聞けるのに、なんで聞いていかないの? 仲良くできるんだから、仲良くしないともったいないよ」

 

こんなことを言われたからといって、むろん私が立ち止まって耳を傾けるわけではない。わたしが表したいのはむしろ、そう分かっていてなお採掘競争へと向かうという決意だ。わたしは穴を掘りたいのだ。音楽を聞きたいのではない。

 

はるか昔、ニュートンはさまざまな力学的な現象を、運動方程式のかたちにまとめ上げた。人類史上まれにみる、偉大な結果だ。しかし、わたしがもし当時に生きていたなら、わたしはこう言っただろう。りんごが落ちるのと天体の運動をわざわざいっしょにしなくても、わたしはどちらもじゅうぶんに扱える。