機械の箱に願いを込めて

幾度となく言われていることだが、けっきょく科学とは信仰である。

 

もっとも、科学の宗教性を否定するむきもある。科学者とはそもそも理想主義的な生き物だが、その中でも最も盲目な部類の人間は、科学は宗教や魔法とは違うと主張する。彼らの論拠は、科学の検証可能性だ。すなわち科学においては、文献をひとつひとつ追い、実験をひとつひとつ積み重ねれば、誰しも同じ境地にたどり着ける、というわけである。

 

だがもちろん、現代においては、誰しもこれが机上の空論に過ぎないと知っている。科学はあまりに深遠で、目の前の現象を理解するために、しばしば何年もの時を要する。ましてや追実験の困難さなど、もはや論ずるまでもない。理想主義者たちは、きわめて簡単な現実すら直視できない――つまるところ、一般人は ABC 予想の証明を理解できないし、一般家庭に高エネルギー素粒子加速器はないのだ。

 

ゆえに科学とは宗教であり、魔法であり、呪術である。科学を信じる根拠とは、科学者がそう言っているからに過ぎない。そしてまったく同じ原理で、我々は宗教家を、占い師を、祈祷師を信頼する。

 

この点、パソコンとは魔法の箱である。原理は一切わからないが、なぜだかペンなしで文字が書ける。声も届かないほど遠くの人に、なぜだかメッセージを送れる。多少詳しくなったところで、ゲームの物理シミュレーションがなぜあれほどの速度で動作するのか、私には見当もつかない。パソコンは、検証可能な原理を一切理解しなくとも、とりあえず動かせるのだ。

 

さて、科学は魔法と大差ないが、魔法の方が優れている点がひとつある。科学と違い、魔法は都合がいいのだ。

 

科学と魔法では、要求に応えるための手法が違う。科学では、要求は細かなピースへと分割される。科学の与える答えとは、すべてのピースを寸分の違いなく、正確に組合わせたものだ。反面、魔法は願ったものをそのまま与える。杖から散る火花は、数えきれないほどの魔法要素の詰め合わせではありえない。火花を散らす魔法を唱えたから、火花が散っているのだ。

 

パソコンは科学の箱ではなく、魔法の箱だ。だから我々は、科学には到底無理な操作結果を、あたかも当たり前の権利のように考える。つながれと言っただけで、動画はつながってほしい。エディタの丸数字を箇条書きと認識するかどうかは、常に私の意図通りであってほしい。ロールプレイングゲームのアイテム操作は常に煩わしい――適当に開けたチェストにはなんと、思い通りのアイテムが入っていないことがあるのだ!

 

思い通りにならない魔法には腹が立つ。だが上手くいかなくても、やはりパソコンは魔法だ。だから、我々に科学的詳細を顧みる義務はない。

 

だがそれでも、我々の要求はときにあまりに無茶である。我々はパソコンの融通の利かなさを罵るが、生身の人間だって、そんなに融通は利かないかもしれない。ときに相矛盾することがらすら、我々はパソコンに要求する。しかし魔法は矛盾を無視こそすれ、解消はしてくれないのだ。

 

願いが叶うかは場合によるが、すくなくとも、正体不明の願いは叶わない。叶えるためには、まず言葉にすること。だから、パソコンに悪態をつくのは、パソコンという魔法に何をしてほしいのかを整理したあとでいい。