追憶 side: ハルカ 後編②

「着いたぞ」サロエが足を止めた。見たところそこはただの路地で、ボロボロの二階建てが立ち並んでいた。正面の建物の窓にガラスはなく、泥だらけの窓枠にはスズメバチの巣がかかっていた。もはや用をなしていない詰まった側溝からは、真新しい吐瀉物の不愉快な臭いが漂ってきた。

 

私は、《古代人》の娘だぞ。サロエに怒鳴り散らしてからずっと、私の頭には先ほどの自分の言葉がこだましていた。驚きと失望がごちゃ混ぜになったような感情だった。こんな言葉が私の口から出てくるなんて、これまで思いもしなかった――私がとっさに、母の権力をかさに着るなんて。

 

もっとも、私の一部は冷静さを取り戻していた。ここは危険だ、だから身を守らなければ。私はサロエにぴったりとついて歩いた。サロエが本当に《常夜街》の出身なのかは分からないけど、こういう場所に慣れているのは間違いなさそうだった。

 

サロエはまっすぐに目の前の建物に入っていった。あまりにも普段通りの歩調で、私は一瞬、さっきの言い合いは幻だったのではないかとまで思った。私はサロエの背中を、普段にもまして大きく感じた――彼女はまったく平静だ、私はこんなにも動揺しているのに!

 

建物内は真っ暗だった――壊れた窓から差し込むわずかな街の光を除いて。サロエはカバンからランタンを取り出すと、灯りをつけた。見たところそこは大広間で、だが限られた灯りでは端までは見渡せなかった。棚のようなものが並んでいたが、何かが収められているようには見えなかった。

 

私たちは棚の間を進んだ。サロエの光を見失わないように注意しながら、私は左右の棚をちらちらと見回した。だが、降り積もった埃と誰かの食べかす以外、何もめぼしいものはなかった。

 

暗闇を、私たちは進んだ。目の前の蜘蛛の巣を、サロエが払った。足が何か固いものを踏み、かたりと音を立てた。棚を伝う手がコウモリの死骸に当たり、足元をネズミが走った。

 

広間の奥まで進むと、地下へ向かう階段があった。降り積もる埃は一段と厚くて、私たちの足跡がはっきりと見えた。会談の先の扉には南京錠がかかっていて、サロエはカバンから鍵を取り出して錠を開けた。私は、極度に落ち着いている自分に気づいた――《常夜街》の建物、その謎の地下室に連れ込まれようとしている、なのに私の心臓は、いつもとほとんど同じリズムで脈打っていた。

 

サロエがゆっくりと扉を開けた。私はそれを、恐ろしいほどの冷静さで見た。完全な暗闇。まるで古代文明の頃から、誰も足を踏み入れていないかのような黴臭さ。ランタンの光が差し込み、埃の群れが舞い上がってきらめいた。埃の奥に棚が見えた。だがさっきまでとは違い、棚にはぎっしりと何かが詰まっていた。

 

次に見えた光景に、私は目を疑った。棚に隙間なく詰め込まれた、大量の古文書。私は近づいて背表紙の埃を払った、すると古文書はまるで昨日製本されたかのように輝いた。近くの棚に見えるシリーズは全巻揃っていた――母に連れられて行ったどの図書館でも、全く散逸がないなどありえなかった。

 

私は舞い上がって、ずっと読みたかった古文書を探した――あるシリーズの一冊で、どの図書館を探してもその巻だけは見当たらなかった。本は規則的に並んでいたから、その本はすぐに見つかった――そしてやっと、無邪気に動き回る私にサロエがずっとついてきてくれていたことに気づいた。

 

私の頭の中を、大量の疑問が駆け抜けた。どうして《常夜街》にこんなに上質な図書館が、私は言いかけて、先ほどのサロエの言葉を思い出した。ここには人がいる、生活がある。だったら、いい図書館だってあっていい。だから代わりに、私はこう尋ねた。「先生は、やはりここの出身なのですね」

 

「そうだ」ランタンの光に照らされたサロエの横顔は、心なしか笑顔に見えた。「私はこの場所で古代技術を学んだ。だから、お前たちの知らないことも知っている」

 

「どうして、出てこようと思ったんですか? こんなに素晴らしい場所があるのに」言ってから、私は自分の質問の愚かさに気づいた。この地域は、こんなに素晴らしい場所を、鍵で封じ込めておかなければいけないところ。

 

質問を後悔する私の顔を見て、サロエは悲しげに頷いた。彼女は棚に身体を向けた、ゆったりと、想いを振り払うように。「私はこの地域が好きだ。お前らが散々に言うこの土地がな。でもやっぱりお前らの言う通り、ここはクソみたいなところだ」サロエの目は何を見るでもなく、私はその中に深い諦めを感じた。

 

いたたまれなくなって、私はサロエから目をそらした。礼を言わなければ、私は直感的に思った。「ありがとうございます、この場所のすばらしさを教えてくれて」だがこの言葉は、外の騒音にかき消されて届かなかった。

 

外を、階段の上を誰かが走っていた。企むような話し声が聞こえ、私たちは我に返った。「まずい!」サロエが叫び、入口の扉に駆けた。私は持っていた本をカバンにしまうと、すぐに後を追った。二人とも外に出ると、サロエは乱暴に扉をしめ、素早く南京錠をかけた。

 

私たちは階段を駆け上がった。ランタンの光が激しく揺れ、床と天井をあべこべに照らした。サロエが急停止し、私はつんのめって段差に脛を打った。

 

サロエのランタンが、男の顔を照らした。下からの光に、その顔は幽霊のように青白く輝いていた。その後ろに、別の男女が数人。男がゆがんだ口を開き、悪夢のようなせせら笑いを浮かべて言った。

 

「お久しぶりだね、サロエ姐さん。そこに何かを隠してるんなら、俺たちにも分け与えるのが筋ってもんじゃないのかね」