追憶 side: ハルカ 中編

「……ハルカさん?」

 

どすの効いた女性の低い声に、私ははっと目覚めた。額にじんと痛みを感じ、手でさすると机の痕がついているのが分かった。古文書を開いたまま、知らぬ間に私は寝ていたようだった。

 

目の前に立つ女性が誰だったか思い出し、私ははっとして姿勢を正した。《常夜街の教師》、サロエ。身長百八十センチはあろうかという巨体に、鋭い眼光。肉付きの良い身体は鍛えられて引き締まり、並みの男など片手で投げ飛ばしてしまえそうに見えた。長い豊かな黒髪は途中でほつれて絡まり、彼女の力強さを余計に際立てていた。

 

もっとも、恐ろしいのはその風貌だけではなかった。彼女の生誕は謎に包まれていて、《影の地区》の生まれだというのがもっぱらの噂だった――あるいは、《常夜街》の。

 

《影の地区》とは、南の壁に近い一帯のことだ。その名前は、すぐ南にそびえる壁のせいで日照時間が短いことに由来する。《影の地区》は治安の悪さで有名で、私たちは絶対に近づかないように言われていた。その《影の地区》の最奥部、世界の南東の隅に、《常夜街》はある――と、言われているが、実際に見た知り合いはいなかった。

 

サロエは自らの生誕を明かそうとはしなかったし、誰も訊こうとは思わなかった。そんな素性の怪しい女性が、私たちのいる《産業地区》で教師などをやっているのは、ひとえに彼女が技術に明るいからだ。サロエの教え方はぶっきらぼうで、皆にとってわかりやすいとはとても言えなかった。だが時折彼女は、母ですら知らない技術の話をするのだった。

 

サロエは何も言わずに私の古文書をひったくると、しげしげと眺めた。彼女がページをめくる間、私はひやひやして彼女を見つめていた――特にやましいことはなくても、それでもつい無条件に私が悪いと認めてしまうような、そんな威圧感がサロエにはあった。

 

「この数式は、どういう意味だ」古文書の一節を指し示しながら、サロエはぶっきらぼうに訊ねた。こんな風に口を利いてくるのは彼女だけだった――《古代人》の娘が相手だからといって、まったく物怖じしないのは。

 

私は指し示された部分を見た。まだ読んでいない部分だったが、何を示しているかは大まかに分かった。「レンズ同士が取るべき距離を、空気の屈折率を用いて補正した式です」私はサロエが納得する答えを出せただろうか。私は彼女の顔色を窺ったが、仏頂面は変わらなかった。

 

サロエはしばらくページをめくり続けた。教室はしんとしていて、まるで雪の降り積もる冬がここにだけ訪れたかのようだった。私の緊張の糸が切れそうになったころ、彼女は音を立てて古文書を閉じた。

 

彼女は古文書を机に置き、私をまっすぐに見据えた。鋭く冷たい眼光の裏に、何か意志のようなもの煌めくのが見えた。そしてようやく、サロエの口が動いた。

 

「今からしばらく、付き合え」