第十五話

「あっちに走って!」思わぬ方向からの声に見上げると、彼女は隣家の屋根の上に立っていた。下には作業員たちの人だかりができていて、彼女をどうやって引きずりおろしたものか相談していた。

 

言われたとおり、私は裏路地に入った。何年もここに住んでいるのに、入ったことのない路地だった。あとから、数人の作業員が追いかけてきた。行き止まりだったらどうしよう、そう思ってあたりを見回したところで、次の指示が飛んできた。「次の角を右!」

 

私は走った。問題は、追いかける作業員にも指示が聞こえていることだった。私の体力では、このままだと追いつかれる。息が上がり、足音が近づいてきた。若い作業員の規則正しい呼吸が、はっきりと聞こえてきた。

 

私の背中を誰かの手がかすめ、上着の端を掴んだ。急な力に私はバランスを崩し、とっさに右手が後ろに動いた。捕まった、そう思ったが、代わりに聞こえてきたのは男のうめき声だった。私の肘に残る柔らかい感触に、私の肘が彼の腹に入ったのだと気づいた――ごめん。つぶやいて、私は走り出そうとしたが、追っ手はすぐそこまで近づいてきていた。

 

何かが上を飛び、そして着地点から声が聞こえてきた。「次を右!」私は曲がったが、もう体力は限界だった。それでも私は走り、そしてこの先は大通りだと気づいた。追っ手を撒こうにも、そんな見通しのいいところを通るわけにはいかない。こっちはダメ、私がそう叫ぼうとしたとき、私の右手が乱暴に引っ張られた。

 

捕まった、私はそう思った。隣の庭に積まれたごみからタールの臭いがした。だが、次の瞬間、私の身体は重力に逆らって浮き上がった――彼女の背中の上で。

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

振り返ると、作業員たちが転んでいた。彼女が知らぬ間に道にロープを張っていて、それに引っかかったようだ。みんな思い思いの場所を抑えてうずくまっていて、私は少し申し訳なくなった。

 

私をおんぶしながら、彼女は屋根を縦横無尽に駆けた。けがをした作業員たちが平地を走るよりも彼女は速くて、すぐに追っ手はいなくなった。路地からは死角になる平屋の屋上で、私たちは一息ついた。

 

「……ごめん……なくて」すぐにベランダから跳べなかったことを私は謝ろうとしたが、息が続かなかった。彼女の目は真剣なままだった。「無理にしゃべらないで」たしなめる彼女の声は鋭く冷徹で、激しい運動のあとだなんて微塵も感じさせなかった。

 

私の息が落ち着くのを待って、私たちは下に降りて歩き出した。彼女の早足は、歩いているというより、むしろ走り出さないようにどうにか気を付けている風に見えた。ついていくだけで精一杯だったが、それでも私には訊ねたいことがいくつもあった。

 

「いったい……壁には何が起こったの」呼吸の合間に、私は訊ねた。

 

「見た通り。穴が空いて、向こうとつながった」前を見据えたまま、彼女は答えた。

 

「空いた? 空けたんじゃ……なくて?」言葉尻がひっかかり、私は訊いてみた。

 

「そう。向こうから、穴が空いた。たぶん、向こうの人たちは、こっちに来るつもり」彼女の首に一筋の汗が流れた。

 

「待って……壁の向こうに人が?」あまりに急な話で、私はうまく呑み込めなかった。『壁の向こうの世界で……』――これはおとぎ話の書き出しだ。そんなものが現実にあるの? 向こうに地面こそあっても、人がいるとは信じられなかった。

 

「上から見た。向こうに人はいるし、アタシたちのと同じような街もある」動揺する私と打って変わって、彼女は平然としていた。「そして多分、アタシたちに気づいてる」

 

にわかには信じられなかったが、信じないわけにもいかなかった。「すでに誰か……来てるの?」代わりに私は訊ねて、望遠鏡から見えた地面の赤い染みを思い出した。父の昔話。私の額を冷汗が流れた。「もしかして……殺した?」

 

彼女は頷き、切り出した。「勝たないと。アタシたちは身体は強いけど、多分それだけじゃ勝てない。でも、アンタのところの技術があれば、どうにかなるかもと思った」

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

私たちは道を急いだ。聞けば聞くほど、勝てる戦いには思えなかった。話によれば、向こうは、壁の上にまで何かを飛ばす技術を持っている。そして、その技術は、壁の上にいる少女を狙えるほど精密。より恐ろしいことに、彼女の話は完璧につじつまが合っていた――あの日望遠鏡で見た出来事と。

 

「現地を見るまで分からない」、私は自分に言い聞かせるかのように彼女に言った。もしかしたら、戦わずに済むかもしれない。実はその筒とやらは古代文明の遺構で、向こうの人は原理を分かっていないかもしれない。どれも現実的とは言い難いが、そもそもこの状況自体、とても現実的ではなかった。

 

もはや彼女は歩いてはいなかった。私は懸命に走ったが、どんどん引き離された。私はふと、この場所の雰囲気が工場の周りと違うことに気づいた。建物の屋根は低く、家の庭は広かった。道のそこらじゅうに雑草が生えていた。足元を走るネズミに、私は驚いて転びかけた。私は急に心細くなった――ここではぐれたら、私は二度と帰れない気がした。

 

「ちょっと待って」走る彼女を私が三度目に引き留めたとき、右手で何かが崩れる音がした。何かが落ちてきて、私の腿をかすめて切り傷を作った。見ると、右手の建物の屋根が大きく潰れていた。「逃げて!」彼女の叫び声が聞こえ、私は左手の空地へと走った。

 

彼女が私に追いつき、空地で私たちは立ち止まった。私たちは振り返り――そして、はっきりと見た。

空を切り裂き、何か黒光りするものが飛んでくるのを。

私たちははっきりと聞いた。

轟音を上げるそれが、民家の屋根を貫通する破壊音を。そこかしこで上がる悲鳴を。