第九話

視界が揺れ、レンズの向こうの少女が転びかけた。少女はまるで何かに追われているように、壁の上を走っていた。時折上がる土煙からも、なにか良くないことが起こっているのは明白だった。

 

私は「危ない!」と叫びかけ、一瞬ののちに、先ほど親方にレンズの調整だと言い訳したのを思い出した。私は接眼レンズから目を離さず、耳だけであたりを探ったが、親方の気配はなかった。代わりに、尋常でない速さで脈打つ心臓の鼓動を感じた。

 

再び土煙が上がり、少女の姿を隠した。私は少女を見失い、慌てて望遠鏡の倍率を下げた。ピントを合わせるのには慣れていたが、今はその数秒もひどくもどかしく感じた。視界に小さく映る少女を見つけると、私は胸をなでおろした。

 

少女はもはや走ってはいなかった――代わりに彼女はまっすぐに立ち、壁の向こう側を見据えていた。私は再び望遠鏡の倍率を上げようとして……そして土煙が舞った。慌ててピントを戻すと、さっきまで立っていた場所から少し右に、彼女は変わらず向こう向きで立っていた。

 

似たようなことが何度か繰り返された。彼女は立ち、そして突然左右に動く。その一瞬後、彼女のさっきまで立っていた位置から土煙が上がる。土煙が上がるごとに私は肝を冷やし、目を見開いて彼女の姿を探した。見つけると、次の動きを見失わないために彼女を凝視した。

 

だから、私は自分がまばたきを忘れているのに気づかなかった。突然くらりときて、私はとっさに横向きに室内に倒れこんだ。手で身体を支えようとしたが、間に合わず私は床に腰を打ちつけてしまった。大きな音がして、腰に激痛が走った。

 

階段を駆ける音がして、私は這って椅子へ向かった。座ろうしたが、目の焦点が定まらなかった。私は椅子を引き損ねて倒し、また大きな音がした。

 

「大丈夫ですか!?」 ドアの向こうで男性の高い声がした。あの声は確か、最近入った若い作業員のはずだ。彼は親方と違い、私の望遠鏡に理解を示してくれていた。

 

「大丈夫。安心して」大丈夫ではなかったが、私は精一杯の元気を装った。

「望遠鏡は? 大丈夫ですか?」彼は、私より望遠鏡の方が心配なようだった。

「望遠鏡は関係ないわ」私はむっとして返した。彼はそれだけ聞くと、「よかった」と言って階段を降りて行った。「失礼なやつめ」私は悪態をついた。

 

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私は再び望遠鏡を覗こうとしたが、少し覗くと頭がくらくらした。これではピントを合わせ直すこともできない。もう片方の目も試したが、結果は同じだった。私はあきらめて、部屋に戻った。ベッドに腰掛け、私はしばし思索に耽った。

 

そういえば、望遠鏡をこれほど長く覗いていたことはなかった。

こんなに長い時間をかけて作ったのに。

 

耳を澄ませば、外の通りで、近所のおばさんたちが立ち話をしているのが聞こえた。お世辞と笑い声。風が吹き、物干し竿がカタカタと音を立てた。体勢を変えようとして腰が痛み、私は横になった。

 

望遠鏡は、何のためにあるんだっけ?

見えない何かを見るため。でも、私は何かを見たかったの?

こんな機会がなければ、ぜんぜん何も見なかったのに?

 

ふいに私は、重大な事実に気づいて飛び起きた。これまでの思考は露と消え、現実が私の頭に戻ってきた。

 

この世界に、これより高倍率の望遠鏡はない。 

つまり、彼女の窮地を知っているのは、私だけだ。

 

私は這うように部屋を出て望遠鏡を再び覗き、鉄の意志でめまいを抑えながらピントを合わせた。視界は依然としてぼやけていたが、まだ彼女が壁の上に立っているのは見えた――それと、土煙も。

 

まだ、無事。 

でも、どうにかできるのは、私だけ。じゃあ、どうしよう。

 

最初に考えたのは、どうにかして彼女をあそこから助け出すことだった。丈夫な縄か何かが届けば、彼女は降りてこられるかもしれない。もっとも、これはすぐに無理だと分かった――壁の上にまで何かを届ける技術を、私はひとつも知らないからだ。

 

次に考えたのは、登攀者をもっとよく知る人に相談することだ。私にはなにも思いつかないが、詳しい人なら思いつくかもしれない。でも、誰に相談する?

 

私は、彼女が登り始めた足場から、梯子を伝って大人がひとり降りてきたのを思い出した。あの人なら、何かを知っているはずだ。少なくともこれは、私にはひとつの希望に思えた。

 

可能性があるならこの方法だったが、いくつか問題があった。第一に、あの人に会える保証はないし、会っても分からないだろう。第二に、伝えたところで、対処法があるとも思えない。こちらから彼女に干渉するためには、多分誰かが壁を登るしかないだろう。でもそれは簡単ではない――だからこそ、登攀者は登攀者なのだ。

 

他には? 後から思い返せば、このときの私は、ただあそこまで行きたくなかっただけだった。壁までは遠い。五キロメートルほどある。腰の痛みも、この選択肢から逃げる選択を正当化していた。この状態で、壁まで歩くのは大変だ。行って誰にも会えなかったら、私は帰ってこられるだろうか?

 

本当に他の方法はないの? 

 

とっさには思いつかなかった。階下で何かが倒れる音がして、数人の作業員のあわただしい声が聞こえてきた。時間だけが過ぎていった。次第に、私の頭の中をある考えが占めるようになった。

 

たぶん、私は何もできない。この世界の誰も。

私しかできないのと、私にはできるのとは違う。

じゃあ、考えても仕方ないじゃない。

 

再び風が吹き、物干し竿を揺らした。誰かが落とした袋が飛んできて、開け放しの窓に引っかかった。私は思考を続けた。

 

本当に、何かをしなきゃいけないの?

そもそも、私には関係ないじゃない。もともと知り合いでもない、名前も知らないんだから。登攀を見届けてくれたと感謝はされても、決して非難される筋合いはない。

そう。知らなければ、悩むこともなかった。

知ってしまうから、不幸になるの。知ってしまう技術があるから。

 

私はベッドにへたり込むと、これ以上考えないようにした。私は代わりに、幸せだったころの記憶を辿ろうとした。私が望遠鏡に目覚める前の、母の影響でものづくりを始める前の、技術なんかとは無縁の記憶を。

 

ベランダの望遠鏡にカラスがとまり、レンズを乱暴につついた。どこからか水音がして、カラスの声と合わせて不協和音を奏でた。そう。それでいいの。私は目をつぶって枕に顔をうずめた。思考とは裏腹に、私の心にはもやもやとした何かがずっと渦巻き続けていた。