終わりの記念日

少なくない数の人にとって、本日三月三十一日はなにかの最後の日だ。当の私も、今日で修士課程学生の身分が終わり、明日から博士課程学生になる。

 

というわけで、今日は私にとって特別な節目の日だ。色々な感情が、節目にはある。これまでを振り返っての感傷。自分がちょうど境目にいるという不思議さ。明日からの新生活への高揚。

 

……そんなことを感じるほど、私はもう若くない。

 

節目の日は、実際のところ、何の変哲もない普通の一日だ。何かが起こることを期待するには、私は記念日を経験しすぎた。誕生日、正月、改元。期末試験と重なった中学生の頃の誕生日に、私は誕生日がどうしようもなく普通の一日であることを学んだ。特別な日への高揚が肩透かしに遭う経験を重ね、高揚を感じない術を習得してきた。人類が便宜上設定した暦の上で何らかの数値がたまたま特定の値だった、という以上の意味を、記念日は持たない。

 

さて、ここ半月ほど、私は考えたことを日々文章にしてきた。文章には結論が必要であり、つまるところ、私は何かに日々結論を出してきた。

 

そうして書き続ける過程で、私は少々飛ばしすぎだということが分かってきた。毎日何かに結論を出し続けるのは簡単ではない。私の手元のメモには、形にならなかったテーマが大量に溜まっている。結論が出ないテーマと、とうに確定した結論を持っているテーマだ。

 

結論を出すとは、つまるところ、今日を特別な日にする営みだ。そして、毎日が特別ということは、すなわち毎日が全く特別でないということだ。「今日は何の日」の検索結果は、今日が特別だということを意味しない――どの日にも特殊性が存在するという普遍性が明らかになるだけだ。

 

というわけで、明日からの日記は、これまでとは少々異なるものになるだろう。そろそろテーマが限界なのだ。今日は三月三十一日。節目は、何かをやめる口実にはうってつけだ。