状態と権利の多様性 ③

多様性とはきわめて神聖な目標で、なににもまして必ず達成されなければならない。無条件で素晴らしいものであるところの多様性は、いついかなる場合であっても、歴史の正しい側に立っている。究極の多様性というユートピアは、万人の目指すべき目標だ。そしてその実現に異を唱えるものは、異論の程度に関係なく、すべて反逆人である。

 

おそらくこういう認識が、いまの世の中にはある。今回はこの認識を、あえて罪だとは言わないでおこう。自分の正しさを妄信し、刃向かうものを吊るし上げるなんて、べつに大したことではない。どんな運動だって、およそ主義主張というものがあるなら、多かれ少なかれきっとこういう形態を取るはずだ。みずからの敵と真摯に議論するなんて、できるひとはそうそういない。やるひとはもっと少ない。敵は滅ぼすものであって、敵の話とはまったく、耳を傾けるに値しないもの。そう素朴に信じることすらできない残念なやつらは、そもそも運動に身を投じたりはしない。

 

けれども。その絶対主義的な認識の刃は、敵だけではなく味方にも向けられている。そのことは、はっきりと罪であるようにわたしは思う。

 

状態としての多様性と、権利としての多様性。これらは全然ことなる概念だとわたしは思うけれど、切り離されて語られることはほとんどない。多様性を求めるひとたちは基本、これらを一緒くたに扱う。いわく、「○○属性のひとが少ない環境が、健全な環境であるはずがない」。無根拠もはなはだしい暴論だけれど、この議論は通る。必要なはずの検証のプロセスをすべてすっ飛ばして、唯一の真実だということにしてしまえる。それもすべて、権利の問題では本来ないはずのものを、権利の問題にひもづけてしまうからだ。ふたつの多様性が、おなじ「多様性」ということばで表現されるのをいいことに。

 

この歪みが意図されてのものなのか、わたしには分からない。いや。おそらく意図はないのだろうと、わたしは思う。というのも、ふたつの多様性は一応、切っても切れない関係にはあるからだ。権利としての多様性が最大限に尊重された世界では、状態としての多様性は自然に達成される。状態としての多様性が実現されていない世の中とは、結局のところ、権利がまだじゅうぶんに保障されていない世の中のことだ。状態とは、権利の度合いをあらわす指標になりうる――女性比率だとか留学生比率だとか、その手の指標を満たすことそれじたいは、特に意味を持たないとしても。