言葉と救済と

人は、自らを代弁してくれる言葉に救われる。

 

誰しも人は、言葉にしにくい想いをしまい込んでいる。道徳への反感、世の中に逆行する思想。綺麗な人間など存在しない――少なくとも、私はそれを人間と定義しない。

 

しまい込んだ想いを的確に代弁する言葉に出会ったとき、人は興奮する。同じ思いを持っていた人がここにいた、自分は間違っていなかったのだ、と。実際には普遍的な言葉であっても、人はそれを自分だけを救うための言葉だと考える。

 

二週間、私は、私の想いを書き綴ってきた。整理した想いを人に見える形で残してきたのは、きっと他の誰かにもあてはまると思ったからだ。私の言葉が誰かを代弁したなら、誰かを救ったなら、私が一人でないと確認できるからだ。

 

この日記が、誰かの悶々とした心を、少しでも救えれば幸いである。

 

 

 

……いや。

救いたいのではない。利他主義を行動原理にした覚えはない。

だとしたら。

 

そうだ、これは呪いだ。人に見える形で残してきたのは、人を唆して私の側に引き入れたいからだ。私の言葉を見て、信じた方が良い正義を疑うがよい。非道徳を正当化して一生を棒に振るがよい。私の不完全な模倣を志して破滅するがよい。自らの思いを代弁してくれたと勝手に思い込んで、私の言葉にただ支配されるがよい。